続いた低迷期をついに脱し、2022年F1の台風の目になっているスクーデリア・フェラーリ。チームは、第2戦サウジアラビアGPの舞台裏を捉えた動画を公式YouTubeチャンネルにアップした。
開幕戦バーレーンGPを3年ぶりの勝利とワン・ツーフィニッシュで飾ったフェラーリは、その勢いのまま第2戦の舞台サウジアラビアに乗り込んできた。
続いた低迷期をついに脱し、2022年F1の台風の目になっているスクーデリア・フェラーリ。チームは、第2戦サウジアラビアGPの舞台裏を捉えた動画を公式YouTubeチャンネルにアップした。
開幕戦バーレーンGPを3年ぶりの勝利とワン・ツーフィニッシュで飾ったフェラーリは、その勢いのまま第2戦の舞台サウジアラビアに乗り込んできた。
FIAは4月15日、かつてF1チームを創設したジャンカルロ・ミナルディをFIAシングルシーター委員会の会長に選出したことを発表した。
ジャンカルロ・ミナルディは、フォーミュラ・イタリアのチームを運営した後、F2チームで成功を収め、1985年にはミナルディチームとしてF1に進出した。2001年にはポール・ストッダートにチームを売却。ストッダートが2005年末でレッドブル社にチームを売却し、2006年からチームはスクーデリア・トロロッソ(現アルファタウリ)としてF1に参戦、ミナルディの名称はF1から消えた。
アルファタウリのチーム代表フランツ・トストは、角田裕毅にとって、F1での2年目の今年は非常に良いシーズンになると考えている。角田はトレーニングにも真剣に取り組み、大きく進歩しているという。
トレーニングは好きではないという角田は、F1デビュー前、体力面について甘く見ていた部分があったと自身で認めている。F1デビューイヤーの2021年に体力不足を実感、そのため、今シーズンに備えてトレーニングを増やしたと、角田は開幕前に述べていた。
2022年シーズンのF1は技術面で大きな変更があったが、レースウイークのフォーマットやスポーティングレギュレーションにおいても多くの修正が加えられている。これらの変更は、ドライバーやチームの活動にどのような影響を与えるのだろうか。メルセデスF1が改めて2022年F1のレースウイーク変更点を解説している。
23戦からなる2022年のカレンダーは、F1史上最長のものだ。たとえレース数が少なかった場合でも、ウクライナでの戦争によってチームの物流部門の仕事はいっそう厳しくなっている。
ロシアの運送会社はもはや選択肢にならないので、航空貨物の輸送能力は大幅に減少している。そして需要と供給の世界では、供給が減ると価格は上昇する。航空貨物料金が1週間のうちに80%も跳ね上がるという話もあるのだ。
アストンマーティンF1のチーム代表を務めるマイク・クラックは、散々だったF1第3戦オーストラリアGPの週末によってAMR22の開発が遅れる可能性があると述べている。
アストンマーティンは、満身創痍でメルボルンを後にした。アルバートパーク・サーキットでふたりのドライバーが喫した複数回のクラッシュのせいで、クレートは破損したパーツで一杯になった。
レッドブルのモータースポーツアドバイザーを務めるヘルムート・マルコは、F1第3戦オーストラリアGPでのセルジオ・ペレスのパフォーマンスを称賛し、チームメイトのマックス・フェルスタッペンと「同格」だったと主張した。
ペレスは、開幕戦バーレーンGPでは最終盤にリタイアして表彰台を逃したが、第2戦サウジアラビアGPでは自身のキャリア初となるポールポジションを獲得した。
モナコ自動車クラブ(ACM)会長のミシェル・ボエリは、F1モナコGPは2022年以降もF1のカレンダーに残ると述べた。
F1がラスベガスやマイアミ、カタールといった新しいグランプリと契約を結んでいることから、フランスとベルギーで開催されている歴史あるF1レースの将来に疑問が投げかけられている。
ハースF1チームが元タイトルスポンサーであるウラルカリ社との契約を一方的に打ち切った後、契約金の扱いについて両者の意向に食い違いがあり、争いが法廷に持ち込まれる可能性が高まってきている。
ロシアがウクライナ侵攻を開始したことを受け、ハースはロシア企業であるウラルカリ社とのタイトルスポンサー契約、ロシア人ドライバーであるニキータ・マゼピンとのレースドライバー契約を解除した。ウラルカリ社の共同オーナー、ドミトリー・マゼピンはニキータの父親であり、ロシアのウラジーミル・プーチン大統領と強いつながりを持つ。
ラリーにチャレンジしたレーシングドライバーとしては、ロバート・クビサを忘れるわけにはいかない。キミ・ライコネンも一時期真剣にラリーに取り組んだが、クビサは彼以上にラリードライバーとして鍛練を重ねた。
子供の頃からラリーが好きで、地元ポーランドのラリーを観戦しに行ったこともあるという。が、10才の時にレーシングカートで頭角を現し、イタリアに渡ってからはフォーミュラのエリートコースを邁進し、F1まで上りつめた。もっとも、マカオGPのF3では2回2位に入るなどストリートコースでの速さはフォーミュラ時代から光るものがあったが。