ラリーにチャレンジしたレーシングドライバーとしては、ロバート・クビサを忘れるわけにはいかない。キミ・ライコネンも一時期真剣にラリーに取り組んだが、クビサは彼以上にラリードライバーとして鍛練を重ねた。
子供の頃からラリーが好きで、地元ポーランドのラリーを観戦しに行ったこともあるという。が、10才の時にレーシングカートで頭角を現し、イタリアに渡ってからはフォーミュラのエリートコースを邁進し、F1まで上りつめた。もっとも、マカオGPのF3では2回2位に入るなどストリートコースでの速さはフォーミュラ時代から光るものがあったが。
フォーミュラドライバーとなっても、クビサはラリーへの思いを断ち切れず、2004年頃からポーランド国内のラリーに出るなどして密かに腕を磨いていた。2009年にはルノー・クリオR3でイタリアやフランスのラリー5戦に出場し、翌2010年にはIRC(インターコンチネンタルラリーチャレンジ)の1戦として開催された、ラリー・モンテカルロにも出場。彼は当時すでにF1ドライバーであり、モンテカルロ出場は大きな注目を集めた。
ちなみに、その年はミッコ・ヒルボネンが完成したばかりのフォード・フィエスタS2000で出場し優勝。他にもセバスチャン・オジエやクリス・ミークらが出場していた。残念ながらクビサのクリオR3はエンジンにトラブルが発生し、初めてのモンテカルロはリタイアに終わった。
しかし、クビサのラリーに対するモチベーションはモンテカルロ出場でさらに高まり、その年はラリーに10回も出場することに。そこで、ペースノート走行など、ラリーを戦う上で必要な基本技術を磨いていった。そのプロセスが、駆け足で一気にWRCまでステップアップしたライコネンとの大きな違いであり、クビサはペースノートを基にしたドライビングをほぼマスターしていた。
ところが2011年2月、彼のキャリアを大きく左右するアクシデントが起きる。イタリアの国内ラリーにシュコダ・ファビアS2000で出場したクビサは、クルマの姿勢を乱しガードレールに激突。アンラッキーなことにガードレールが車内にめり込み、右腕と脚部に重傷を負ってしまったのだ。その結果、彼は長期の入院を強いられ、右腕の機能が大幅に低下したことでF1のシートを失うことになってしまった。
■WRC2のシリーズチャンピオンに
最初は乗用車すら運転できない状況だったというが、必死のリハビリで徐々に回復。2012年にはイタリアのラリーにスバル・インプレッサWRC07で出場し、優勝を手にしたのである。狭いコクピットで高GがかかるF1よりも、ラリーのほうが当時の彼の体には負担が少なく、クビサは第2のキャリアとしてラリーを選んだ。
そして、2013年はシトロエンのサポートを受けながら、シトロエンDS3 RRCで精力的にラリーに出場。WRC初出場となった同年のポルトガルでは、WRC2クラス6位を獲得した。その後、ギリシャで初優勝を飾ると、シーズン5勝をあげWRC2のシリーズチャンピオンに輝いたのだった。
その年、クビサはWRC最終戦グレートブリテンで、初めてWRカーのシトロエンDS3 WRCをドライブした。当時のワークスカーと同じカラーリングのマシンは大きな注目を集めたが、残念ながらリタイアに終わった。
しかし、クビサはトップカテゴリーでも戦えるという自信をそこで得、翌年はMスポーツ・フォードの支援を受けマシンをフォード・フィエスタRS WRCにスイッチ。そのマシンでWRCを2シーズン戦ったが、最高位は2014年アルゼンチンでの総合6位に留まった。そして2016年、開幕戦のモンテカルロが彼にとって最後のWRC出場イベントとなってしまった。
クビサのラリードライバーとしての才能は、かのセバスチャン・ローブが「トップを狙える」と太鼓判を押したほど優れていた。しかし、アクシデントの後遺症により右腕の動作が完璧ではなく、それが遠因のミスも少なくなかった。
クビサは当時「残念ながらステアリングを大きく切る状況では厳しい。握力もないから大変だよ」と語っていた。そのようなハンデを負いながらも、諦めることなくWRCで世界のトップを目指したクビサの挑戦は、今でも高く評価されている。そしてWRCでのリハビリが、その後のF1復帰にも繋がったといえよう。
ちなみに、1.6リットルWRカーの時代の初期はパドルシフトが禁じられていたが、右手の自由がきかないクビサのマシンには、特例としてパドルシフトが装着されていた。そこで、やはりパドルシフトはラリードライビングにとっても非常に有効であると見直され、その後パドルシフトの装備がふたたび可能になった。ところが、今年からスタートしたハイブリッドカー規定の“ラリー1”では、またしてもパドルシフトが禁止に。時代は繰り返されるのだ。