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 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、全日本GT選手権(JGTC)を戦った『マクラーレンF1 GTR』です。

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 1996年、シリーズの本格的な発足から3シーズン目を迎えた全日本GT選手権(JGTC)。この年もトヨタ・スープラ、ニッサン・スカイラインGT-Rなどの日本車が優勝争いを繰り広げるかと思われていたJGTCのGT500クラスに、海外から衝撃の1台がエントリーしてきた。

 その1台が1995年のル・マン24時間レースで総合優勝を手にしたばかりの最新GT1マシン、『マクラーレンF1 GTR』だ。『マクラーレンF1』とは、マクラーレン・ホンダMP4/4をはじめとするマクラーレンのF1マシンをデザインしてきたゴードン・マーレイが設計し、1993年に“究極”のロードゴーイングスポーツカーを標榜してリリースされた車両だ。

 そもそも『マクラーレンF1』というのは、マーレイがロードユースもできる最高のスポーツカーを目指して作ったロードカー。当初は、レース参戦を想定して設計されてはいなかった。

 しかし、『マクラーレンF1』がミッドシップレイアウト、フルカーボンモノコックシャシー、センタードライバーシートのコクピットなど、レーシングカーとしても通用する潜在能力を持っていると感じたユーザーからレース参戦を希望する声が高まった。

 そこでマクラーレンは急遽、『マクラーレンF1』をレーシングカーへと仕立てることを決める。そして生まれたのが『マクラーレンF1』のレーシングバージョンである『マクラーレンF1 GTR』というわけだ。

 その後、マーレイ自身も開発に関わり、風洞実験を行なってエアロをモディファイするなどしてレーシングカーとなった『マクラーレンF1 GTR』は、1995年にル・マン24時間レース、そしてBPR GTシリーズも制覇する。

 同年に『マクラーレンF1 GTR』は来日し、BPR GTシリーズの一戦だった鈴鹿1000kmでも優勝を果たしている。そのこともあってか、マクラーレンはF1チームのメインスポンサーであったフィリップ・モリスのタバコ『ラーク』をメインスポンサーとして、『マクラーレンF1 GTR』で日本のJGTCに参戦できないかと画策。その打診を受けて、郷和道率いるチーム郷から『マクラーレンF1 GTR』はJGTCへエントリーすることになった。

 1996年のJGTCに参戦したチーム郷の『マクラーレンF1 GTR』は、60号車の服部尚貴/ラルフ・シューマッハー組と、61号車のデイビッド・ブラバム/ジョン・ニールセン組の2台。服部とラルフは同年に車両のメンテナンスを担当したチーム・ルマンよりフォーミュラ・ニッポンに参戦していたふたりで、ブラバムとニールセンはマクラーレン側からの要請で起用されたドライバーだった。

 いよいよJGTCに挑む『マクラーレンF1 GTR』だったが、参戦にあたりGTAより厳しい“性能調整”が施されることになった。その内容は200kgのウエイトハンデ、他車種より厳しいエアリストリクター制限、さらにフロントのリップスポイラーも削られるなど、数々の足枷が課せられた。

 このハンデ内容を聞くだけでもかなり劣勢となりそうな条件だが、『マクラーレンF1 GTR』は開幕戦から脅威の速さを見せつける。

 1996年のシリーズ開幕戦、鈴鹿300kmレース。このラウンドでは、60号車が2番手のトヨタ・スープラと僅差ながらもポールポジションを獲得する。決勝でも、スープラに先行される場面もあったが、見事に60号車がポール・トゥ・ウイン。2位には13番手グリッドから追い上げた61号車が入り、デビューレースを1-2フィニッシュで飾ったのだった。

 第2戦富士でも『マクラーレンF1 GTR』は、61号車が優勝して2連勝をマークする。しかし、第3戦仙台ではポールポジションを獲得するも逸勝。連勝がストップしてしまう。このタイミングで1997年規定の導入を前倒すことによる、さらなる性能調整が課せられることになった。

 これはニッサン・スカイラインの救済が主眼で、『マクラーレンF1 GTR』には不利なものになると思われたが、『マクラーレンF1 GTR』が最大の脅威と感じていたスープラ勢に効いてしまい、『マクラーレンF1 GTR』にとっては、少しばかりだが追い風となった。

 性能調整実施直後の第4戦富士では勝利を逃してしまうが、第5戦SUGOでは、ピットロードでのスピンというハプニングを起こしながらも、60号車が開幕戦以来の勝利を記録する。

 この時点で、『マクラーレンF1 GTR』は5戦中3勝をマークしていたが、最終戦MINEラウンドを迎えるにあたり、ポイントリーダーは星野一義/影山正彦のカルソニックスカイラインで、それを61号車が1点差で追う展開だった。

 そして迎えた最終戦のMINEラウンド。ここで60号車がポール・トゥ・ウインを達成する。61号車は4位フィニッシュだったが、カルソニックスカイラインがリタイアに終わったこともあり、61号車がシリーズチャンピオンを手にした。

 ランキング2位には最終戦に勝利し、シリーズ3勝目をマークした60号車が3点差で続き、『マクラーレンF1 GTR』はJGTC完全制覇を果たしたのだった。

 この勢いで翌年もJGTCに参戦継続かと思われたが、チーム郷は政治的な理由もあり、1997年は日本で戦うことはできないと判断する。この年限りで撤退を決め、『マクラーレンF1 GTR』はJGTCから姿を消したのだった。

 しかし3年後の1999年、ル・マンでポルシェ911 GT1など強力なライバルに対抗すべく、ロングテール仕様となった『マクラーレンF1 GTR』が再び日本のレースシーンへと姿を現した。

 テイクワンが1997年にチーム郷がル・マンや鈴鹿1000kmを戦ったロングテールバージョンの『マクラーレンF1 GTR』を手に入れ、JGTCへと参戦したのである。

 さらに2000年からは、一ツ山レーシングもロングテール版の『マクラーレンF1 GTR』でJGTCへとエントリーする。2000年からは2台の『マクラーレンF1 GTR』がGT500クラスを戦っていた。

 JGTCもこの時代になるとGT500クラスはトヨタ、ニッサン、ホンダの3大メーカーワークスによる争いがさらに激しくなっており、プライベーターチームの走らせる『マクラーレンF1 GTR』にとっては、苦戦を強いられる状況になっていた。

 それでも2001年の最終戦MINEではテイクワンの走らせる岡田秀樹/アンドレ・クート組の綜警マクラーレンGTRがポール・トゥ・ウイン。2002年の第6戦もてぎでは服部尚貴/田嶋栄一が駆る、一ツ山のイエローコーンマクラーレンGTRがポールポジションを獲得する(決勝も3位表彰台)。このように『マクラーレンF1 GTR』は光るところも見せたが、2003年(スポット参戦としては2005年)を最後に日本のGTから姿を消すことになった。

 ロングテール仕様になってからは海外レース同様、多くの輝かしい成績を残すことはできなかったが、特に1996年の初登場時のインパクトも含め、『マクラーレンF1 GTR』は、GT史上に残る輸入車の一台だったと言えるだろう。

1996年のGT500クラスチャンピオンになったデイビッド・ブラバム/ジョン・ニールセン組がドライブした61号車のラーク・マクラーレンF1 GTR。
1996年のGT500クラスチャンピオンになったデイビッド・ブラバム/ジョン・ニールセン組がドライブした61号車のラーク・マクラーレンF1 GTR。
2001年の最終戦MIMEで優勝した岡田秀樹/アンドレ・クート組の綜警マクラーレンGTR。
2001年の最終戦MIMEで優勝した岡田秀樹/アンドレ・クート組の綜警マクラーレンGTR。
2002年の第6戦もてぎ。ポールポジションからスタートする服部尚貴/田嶋栄一組のイエローコーンマクラーレンGTR。服部は1996年に日本人として唯一JGTCでF1 GTRに乗っており、このイエローコーン号も合わせて、ショートテールとロングテールの両方をJGTCでドライブしている。さらにロードカーのF1にも搭乗経験がある日本屈指のマクラーレンF1 GTR使いだ。
2002年の第6戦もてぎ。ポールポジションからスタートする服部尚貴/田嶋栄一組のイエローコーンマクラーレンGTR。服部は1996年に日本人として唯一JGTCでF1 GTRに乗っており、このイエローコーン号も合わせて、ショートテールとロングテールの両方をJGTCでドライブしている。さらにロードカーのF1にも搭乗経験がある日本屈指のマクラーレンF1 GTR使いだ。