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 モータースポーツの「歴史」に焦点を当てる老舗レース雑誌『Racing on』と、モータースポーツの「今」を切り取るオートスポーツwebがコラボしてお届けするweb版『Racing on』では、記憶に残る数々の名レーシングカー、ドライバーなどを紹介していきます。今回のテーマは、『アウディR8C/R8R』です。

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 現在、そのプロジェクトの進行が一時中断中ではあるが、アウディはLMDhカテゴリーでル・マン24時間レースなどスポーツカーレースシーンへの復帰を画策している。そんなアウディが2000年から破竹の勢いでル・マンを連覇していき、“アウディ一強”とも言える時代を築いたのは、みなさんもご存知のことだろう。

 今回紹介するアウディR8C/R8Rは、そんな“アウディ一強”の時代へのファーストステップとなったマシンである。

 アウディR8C/R8Rがレースシーンに登場したのは1999年のことだった。アウディはル・マンなどのスポーツカーレースへ参戦するにあたって、まず社内のアウディスポーツで、R8R(R8ロードスター)を呼ばれるオープンプロトマシンの開発をスタートした。

 しかし、オープンプロトが参戦できるLMPクラスと、クローズドボディが対象で1999年にはGT1より名称を変えたGTPクラス。どちらが有利なのか、当初アウディは答えを出すことができずにいた。

 そこでR8Rの開発スタートから約1年後、クローズドボディのR8C(R8クーペ)の開発も開始された。ドイツで開発が進められたR8Rに対し、R8Cはイギリスのレーシング・テクノロジー・ノーフォーク(RTN)へ委託し、マシンの設計、製作、レースオペレーションを行うことになった。

 ちなみに、このRTNというのは日本のトムスの欧州拠点であったトムスGBが売却され、アウディ傘下となり名を変えたファクトリーである。トムスGBでマネージングダイレクターを務めていた鮒子田寛がRTNのオペレーションズダイレクターとして残留していた。

 R8Cは、すでにR8Rがあったことと開発のスタートが遅かったこともあり、R8Rからエンジン、駆動系やリヤサスペンションを移植するなど、R8Rとの共通点も多かった。

 ただボディに関しては、アドバイザーのトニー・サウスゲートのアイデアを元にピーター・エラリーが設計したボディやモノコック、フロントサスペンションはRTNのオリジナルとして制作された。

 1999年初めにオープンプロトであるR8Rは完成した。まず、セブリング12時間へと参戦、3位と5位という好成績を収める。その後、ル・マンへと挑んだ。

 一方クローズドのR8Cは、2台のうちの1台が予備予選の直前にようやくマシンが仕上がり、なんとか予備予選を通過するような状況であった。

 さらにR8Cは、ギヤボックスに難を抱えていた。R8Rはパドルシフトを使っていたのだが、R8Cはシフトレバーを備えるシーケンシャルを採用。これの熟成不足などもあったことでギヤボックスの問題がル・マンの本戦で噴出。2台のR8Cは、両機ともにリタイアに追い込まれてしまった。

 一方のR8Rは同様のトラブルはあったものの、すでに実戦経験があったこともあり、トラブルを克服。さらにレースのオペレーションを担当したヨーストレーシングの力もあって、初参戦ながら3位表彰台と4位という殊勲の戦果を上げた。

 このリザルトからアウディは、スポーツカーレースのプロジェクトをオープンプロトマシンで進めることを決意。2000年からヨーストとのタッグでみなさんもよく知るアウディ一強の時代を築いていくのであった。

1999年ル・マンで3位表彰台を獲得したR8Rの8号車。エマニュエル・ピロ、フランク・ビエラ・ディディエ・セイズ組がステアリングを握った。
1999年ル・マンで3位表彰台を獲得したR8Rの8号車。エマニュエル・ピロ、フランク・ビエラ・ディディエ・セイズ組がステアリングを握った。