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「禍を転じて福と為す」とは、自分の身にふりかかった災難や失敗を上手く利用して、逆に自分の有利になるよう工夫することだ。人生、「ピンチはチャンス」、「怪我の功名」という言葉があるように、逆風だったことが結果的にいい方向に進むという場合もある。

 それはクルマも同じで、ここではそんな「災いを転じて福と為したクルマたち」、つまりデビュー時から通常であればネガなポイントを持ちながら、それをものともせずに売れ、ネガをポジに変えてしまった不屈のモデル4台をピックアップしよう。

文/永田恵一写真/ベストカーWeb編集部、ベストカー編集部、日産、ホンダ

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■米国マスキー法クリアの解答として出された初代シビック

1972年7月登場の初代シビックは世界中で大ヒットとなり、ホンダ1300の失敗で瀕死の状態に陥っていたホンダを救った

 1960年代終盤から数年間、ホンダの四輪部門は初の小型車としてリリースしたホンダ1300が重く、コスト高な点など空冷エンジンのメリットとは矛盾するところがある一体式二重空冷エンジンの搭載や乱暴なクルマだったことによる不調に。また、大ヒットしたN360の横転事故の多発などにより、ピンチに陥っていた。

 当時、ホンダの四輪部門は四輪からの撤退もあり得る状況だったところ、ラストチャンスとして開発されたのが初代シビックだった。初代シビックはN360とも共通するMM(マシンミニマム・マンマキシマム)思想による広い室内、外国車のような外観の雰囲気により、老若男女が欲しがるクラスレスなクルマだったことなどを理由に大ヒットし、ホンダを救った。

 さらに、アメリカではクルマの排ガスによる大気汚染が深刻なものになっていたため、1970年代初めに「排ガスのクリーン度をそれまでの10分の1にする」という、俗に「マスキー法」と呼ばれる非常に厳しい排ガス規制が定められた。

 マスキー法は「クリア不可能」とも言われていたが、当時ホンダの社長だった創業者の本田宗一郎氏は「世界中の自動車メーカーが『よーいドン』でスタートするレースなんて滅多にあるものじゃない」と、排ガスクリーン化の研究をスタート。その答えとして誕生したCVCCエンジンは初代シビックに搭載され、初代シビックはアメリカを中心とした海外でも大人気となり、ホンダの躍進に大きく貢献した。

■実は開発とデビューが遅れて登場した初代シーマ

1988年1月に登場し、瞬く間に社会現象を引き起こすほどのブームを作り上げた初代シーマ。実は255psを発揮する3Lターボエンジンのライバル車は8代目クラウンではなく、2代目ソアラの3Lターボ車だったとか

「シーマ現象」という言葉が生まれるほど大ヒットした1988年1月登場の初代シーマ。大成功した理由には、短期間ながら日本最強となる255psの3LV6ターボエンジン搭載、3ナンバー専用ボディの採用、500万円という当時としては異例の車両本体価格などが挙げられる。

 しかし、初代シーマの成功には「開発の遅れにより、ベースとなった前年の1987年6月登場のY31型セドリック&グロリアと同時に発表できなかったことが功を奏した」という意見もある。

 これはいったいどういうことかというと、初代シーマはY31型セドリック&グロリアと同世代の130型8代目クラウンに3ナンバーボディが設定されるという情報や、セドリック&グロリアに対して車格が上となる上級車の必要性が急速に高まっていたことの背景により、急遽開発されたフシがあったようだ。そのことを裏づけるように、初代シーマをテーマにした文献によると、初代シーマの正式な開発開始は1986年4月と記されている。

 この時系列では初代シーマをY31型セドリック&グロリアと同時に出すことは不可能で、むしろ「1988年1月に発表できたほうが凄い」と感じるほどだ。ただ、初代シーマがY31型セドリック&グロリアを同時に発表できなかったことは、130型クラウンに対してY31型セドリック&グロリアは善戦したものの、初代シーマが登場するまで痛手だったのも事実ではあった。

 だが、年が明けて初代シーマが登場すると、初代シーマはY31型セドリック&グロリア発表の際の追加の予告や東京モーターショーへの出展、さらにここが禍を転じて福となった、「開発と登場の遅れにより、初代シーマはY31型セドリック&グロリアファミリーなのに、クラウンの3ナンバーボディより別のクルマのイメージを持った」こともあり、初代シーマはシーマ現象と言われるほど売れたのである。

 初代シーマの牽引もあり、初代シーマを含めたY31型セドリック&グロリア軍団は130型クラウンに肉薄するほど売れ、短期的なものだったにせよ当時の日産の復活、元気な日産を象徴するモデルとなった。

■生産工場設備の制限を逆手に取った初代オデッセイ

1994年10月登場の初代オデッセイ。ボディサイズは全長4750×全幅1770×全高1645~1660mm、ホイールベース2830mm。5代目アコード譲りの4輪ダブルウィッシュボーン式サスによる走りのよさもウリだった

 1994年登場の初代オデッセイはもともと、アメリカサイズのミニバンとして開発が検討されたモデルだった。アメリカサイズとしてのオデッセイは当時、生産する工場を新たに建設する必要性や新しいV6エンジンができるタイミングといった事情で日本でも販売されたラグレイトの登場まで時間がかかった。

 しかし、アメリカサイズのミニバンの開発のためアメリカを視察した開発スタッフは、「マルチに使えるミニバンの素晴らしさ」を日本にも紹介したいという思いで、初代オデッセイとなる当時の5代目アコードをベースにした日本サイズのミニバンの開発を提案。

 ただ、初代オデッセイが開発された時期はバブル崩壊やホンダの販売不振という厳しい背景もあり、投資もかぎられた。投資がかぎられたことによる困難のひとつが工場の設備で、工場への投資もかぎられたことにより、初代オデッセイの全高は「ミニバンとしてはあまり高くできない」という制約があった。

 だが、初代オデッセイは全高をあまり高くできなかった点やリアドアをスライドドアではなく通常のヒンジドアとしたことが、まだ日本では市民権がなかったため「商用車の延長」とも思われていたミニバンに乗用車的な雰囲気をもたらした。

 この点は「ホテルの当時のミニバンで乗り付けると、出入りの業者に思われることもあったけど、初代オデッセイならちゃんと案内してくれる」といった、日本でのミニバンというジャンルの認知にも大いに貢献した。

 また、初代オデッセイは未完成なところもあったとも聞くが、いろいろな意味で投資が抑えられたこともあり、成功したホンダ車に共通する「リーズナブルな価格」というDNAを持っていた点も理由に大ヒットした。

 結果的に初代オデッセイの大ヒットは、当時絶好調だった三菱自動車との合併まで噂されていたホンダを救い、初代オデッセイに続く初代CR-V、初代ステップワゴンといったクリエイティブムーバーシリーズのプロローグになった。

■軽量化へのネガを克服し、歴代モデル中でも速さをまとった3代目ロードスター

2005年8月登場の3代目NC型ロードスター。そのボディサイズは全長3995(マイチェン後は4020)×全幅1720×全高124mm、ホイールベース2330mmで、歴代初の3ナンバーボディとなった

 現在4代目モデルとなるマツダロードスターは歴代モデルすべてが成功し、だからこそライトウェイトオープン2シーターのスポーツカーというマニアックなジャンルながら初代モデル以来33年間も継続されている。

 しかし、2005年登場のNC型3代目モデルが開発されていた時期は、マツダが5チャンネル制をはじめとしたバブル期の拡大路線による後遺症から完全に癒えていたわけではなかった。

 それでもロードスターの開発が継続され、3代目モデルに移行できるのは喜ぶべきことだったにせよ、3代目ロードスターはRX-8ベースでの開発を余儀なくされた。RX-8ベースで3代目ロードスターを開発するというのは軽さを求めたいロードスターにとって、過剰な面が多々ある=重量増という致命的な制約でもあった。

 しかし、3代目ロードスターの開発中、開発主査の貴島孝雄氏が「神風」と言う円高の進行が起きた。どういうことかというと、日本からの輸出が多いマツダにとって円高は痛手だ。

 それを逆手に取って「コストダウンのため」という名目もあり、生産設備を共用するなどしながら、サスペンションのパーツは3代目ロードスターに合った軽量なものを開発することができ、軽量化とコストダウンを同時に実現したのだ。

 さらに3代目ロードスターも歴代ロードスター同様に徹底的な軽量化が行われ、3代目ロードスターの車重は2代目ロードスターの最も重いグレードと同等に抑えられた。

 また、3代目ロードスターは2LNAエンジンの搭載もあり、歴代ロードスターのなかでは速いモデルで、これはこれで歴代ロードスター上での3代目ロードスターの魅力となっている。

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