ロシアのウクライナ侵略戦争は、日本人にも大きな衝撃を与えた。安全保障政策にも影響を与えていくだろう。その背景にある憲法問題にも関わってくる。
日本は、侵略戦争に対して、ロシアに制裁を科し、ウクライナに支援を提供している。国際秩序を守る立場から、対抗すべきものと、支えるものを、識別した。冷戦思考から抜け出ることができない言論人も少なくない中で、日本の国益は国際秩序の維持にある、という立場を明確にした岸田政権の姿勢は、評価できる。今後の安全保障政策や改憲議論も、この方向性にそって進めていくべきだろう。
まずウクライナ情勢を見てわれわれが知るべきなのは、国際秩序は存在する、しかし脆弱ではある、ということだ。そこで日本は国際秩序を維持する立場をとる。なぜなら国際秩序の維持が、平和国家として発展してきている日本の国益に合致するからだ。
「どっちもどっち」論と憲法学通説
逆張りで、「ウクライナは降伏するべきだ」「ロシアにも正義がある」「喧嘩両成敗が正しい」「どっちもどっちだ」などの見解を表明した言論人の存在も、話題を集めた。残念ながら、いずれもただ「1945年の日本」の歴史を述べ続けたりするだけの的外れなものばかりだった。
「アメリカの代理戦争だ」「アメリカに責任がある」「アメリカは卑怯だ」「アメリカは妥結をしろ」といった、アメリカ依存思考丸出しの言説が、陰謀論の域にまで達している方々もいた。アメリカ中心主義でないと国際情勢を見ることができない“冷戦ボケ思考”である。
これらの言説の中に、ウクライナはもちろん、ヨーロッパ地域情勢を真剣に検討した形跡を見ることはない。要するに、絶対平和主義やら反米主義やらの嗜好するスタイルを保つために、「とにかく戦争をしているのだから、どっちもどっち」「とにかく悪いのは、アメリカだ」といった話を声高に主張している方々が後を絶たない。
これらの言説の背景にあるのは、根深い第二次世界大戦後の日本に特有の精神風土である。日本の憲法学者の大多数が、アメリカとの同盟関係を否定的に捉え、非武装・中立を理想とする立場から憲法を解釈している。ウクライナやヨーロッパの情勢にかかわらず、反米こそが善であり、戦争の匂いがするもの全てを否定することが正しいと主張する日本の戦後文化の精神的支柱となってきているのが、「憲法学通説」の憲法解釈である。
厄介なのは、イデオロギー的偏見に凝り固まった大多数の憲法学者たちが、「憲法学者の間の多数説」をあたかも絶対的な真理であるかのように声高に主張することだ。2015年の平和安全法制の喧噪の際にも明らかになったのは、自分たちの「多数説」に従わない者たちに罵詈雑言を浴びせかけ続ける数多くの憲法学者たちのイデオロギー的偏狭さであった。
これら同じイデオロギー的見解を持つ同業者間の「多数説」を振り回して、政府の行動も恣意的に規制しようとする憲法学者たちの存在こそが、日本の安全保障政策における最大の障害である。国際法に対する憲法学通説の優位を訴える憲法学者たちは、国際協調主義を目指し、国際秩序の維持に日本の国益を見出す日本の外交政策の敵だと言って過言ではない。
百歩譲って日本国憲法に「どっちもどっちが正義」「アメリカは常に悪」と書いてあるのであれば、憲法学通説が根深くはびこっている現象も、致し方ない。だが実際には、日本国憲法は、国際協調主義を掲げている。国際秩序を守る立場を貫くことによって、国際社会で「名誉ある地位」を得ることを目指している。
憲法は、国際協調主義の障害ではなく、促進者である。障害は、イデオロギー的に偏向した憲法学者である。
憲法が放棄したのは「違法な戦争」
すでに私が様々な機会で述べてきているように、日本国が正式に受諾したポツダム宣言を履行するプロセスにおいて制定された日本国憲法は、アメリカを筆頭とする連合国/国連加盟国の「公正(正義[justice])と信義」を信頼して、「われらの安全と生存を保持」することを予定している。ポツダム宣言履行プロセス終了時に締結されたサンフランシスコ講和条約と同時に締結された日米安全保障条約は、それを実現する具体的な方法である。
憲法9条1項は、1928年不戦条約と1945年国連憲章の文言を参照することによって、日本が国際法を遵守する国になることを宣言している。放棄された「戦争」は、国際法における意味での「戦争」であり、自衛権の放棄は想定されていない。
憲法9条2項で不保持が宣言されている「戦力(war potential)」は、連合軍が枢軸国の「戦争」遂行能力を解体する作業について用いていた概念であり、違法な行為としての「戦争」を行う潜在力のことである。「戦力」としての陸海空軍の不保持は、自衛権行使を目的とした軍隊を持つことを否定しない。
同項で否認されている「交戦権」は、国際法に存在しない概念である。憲法は、存在しない概念を存在するかのように扱うことを「認めない」と宣言している。「交戦権」とは、信夫淳平ら太平洋戦争中に戦時国際法のマニュアルを書いていた者たちが用いていた概念である。信夫らは、大日本帝国憲法の「統帥権」などの概念を根拠にして、国家は自由に宣戦布告して戦争を始めることができる、などと論じていた。憲法が否定しているのは、憲法の優越を主張して国際法を蔑ろにする立場である。
憲法は国際協調主義、憲法学者はガラパゴス
9条は全体として、国際法遵守を宣言する規定である。ポツダム宣言の趣旨にそって、日本が秩序を守る側に生まれ変わることを、憲法は前文から丁寧に説明している。恐らくは意図的に奇妙な訳文をあてた日本政府側の事情のために読みにくくなっているだけで、その趣旨はむしろGHQ作成の憲法草案などを読むと、より明確に伝わってくる。
とはいえ日本国憲法は、日本の国会での審議と国民投票をへて、導入された。そのテキストこそが、真剣に扱われるべきだ。憲法典そのものよりも、司法試験や公務員試験や大学単位に必須だからと憲法学者の教科書やらのほうが重宝されてきた日本の悪しき歴史は、是正されるべきだ。憲法は、国際協調主義である。ガラパゴスなのは、憲法学者である。
ウクライナの人びとの決死の戦いは、国際秩序を守ってくれている戦いでもある。日本は、その観点から、ウクライナを支援している。それにもかかわらず、なお「どっちもどっち」論や「ウクライナ人は、アメリカの代理」論を繰り返し、イデオロギー的に偏向した憲法学通説に固執し、国際協調主義に背を向ける文化だけを頑なに擁護し続けようとするのであれば、日本人の偏狭さもよほど深刻だ、それでは国が落ちぶれていっても当然だ、と考えざるを得ない。
繰り返す。憲法は、国際協調主義である。ガラパゴスなのは、憲法学者である。