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<p>新選組局長・近藤勇の甲冑か…高岡の古刹で発見「山岡鉄舟寄進」の記述 – ライブドアニュース</p><p>【検証へ】近藤勇の甲冑か、高岡の古刹で発見…財産目録に「山岡鉄舟寄進」 甲冑は、黒漆の小さな鉄板を紺色の糸で結んだ鎧と、「蛇の目紋」の飾りが付いた兜からなり、部品の材質などから、江戸時代製としても矛盾しないことがわかったという。</p><p>富山県高岡市の古刹・国泰寺で、とある甲冑が見つかった。幕末に活躍した新選組局長・近藤勇が着用した可能性があるものだという。寺の財産目録に、浪士組設立に関わった山岡鉄舟が寄進したとの記録があった</p><p>幕末に活躍した新選組局長・近藤勇(1834~68年)が着用した可能性のある甲冑(かっちゅう)が、富山県高岡市の古刹(こさつ)・国泰寺(こくたいじ)で見つかった。 新選組の前身「浪士組」設立に関わった幕臣・山岡鉄舟が寄進したと、寺の財産目録に記録があった。科学的検証はまだだが、調査した同県の射水市新湊博物館は「歴史のロマンを感じてほしい」と、22日からの企画展で甲冑の公開を始めた。 同館は2020年10月、国泰寺で文化財調査を実施。1組だけあった甲冑について、寺の財産目録(1944年作成)に「新選組隊長近藤勇ノ著セシモノニテ、鉄舟居士寄進ノモノ」との記述があるのを見つけた。 甲冑は、黒漆の小さな鉄板を紺色の糸で結んだ鎧(よろい)(55センチ四方、高さ50センチ)と、「蛇の目紋」の飾りが付いた兜(かぶと)(34センチ四方、高さ35センチ)からなり、部品の材質などから、江戸時代製としても矛盾しないことがわかった。 一方、外国勢力を排斥する攘夷(じょうい)を巡り、幕府側と対立した長州藩が京都を追われたクーデター「八月十八日の政変」(1863年)の様子を記した商家の日記には、近藤が甲冑を着用して御所の警備に向かったとみられる記述がある。 「蛇の目紋」は近藤家の紋とは異なるが、幕末維新史に詳しい霊山(りょうぜん)歴史館(京都市)の木村武仁・学芸課長は「政変に備えて急きょ着用したのなら、蛇の目紋の付いた甲冑を借りていてもおかしくない。本物かどうかは、今後の研究が待たれる」と話している。 一方、鎌倉時代創建とされる国泰寺は、江戸時代に歴代将軍の位牌(いはい)が安置されるなど徳川家ゆかりの寺。明治維新後は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響で一時、荒廃したが、書家としても知られた山岡が、1万枚以上の書を揮毫(きごう)して販売し、復興を支援したとされる。射水市新湊博物館の松山充宏・主査学芸員は「供養の意を込めて、山岡が甲冑を奉納したのではないか」と話している。 企画展は6月26日まで。火曜日(5月3日は除く)と5月9日は休館。問い合わせは0766・83・0800。</p>