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 三菱ふそうトラック・バスは2022年5月でFUSOブランド誕生から90周年の節目を迎えた。

 同社は戦後GHQによる財閥解体、90年~ゼロ年代初頭の不況・リコール隠し問題など紆余曲折を経て、現在、ダイムラートラックグループの一員として、ADAS(先進運転支援技術)など先進技術の採用に積極的なトラック・バスメーカーとして知られている。

 その「ふそう」の名は、今から90年前の三菱造船神戸造船所で製作された、ガソリンエンジンバスがルーツといわれている。

 いっぽう、三菱ふそうトラック・バスとして設立されたのは、三菱自動車工業から独立した2003年のこと。三菱ふそう誕生まで、どのような変遷を歩み、どのようなトラック・バスが作られてきたのか。その歴史を振り返っていこう。

文/フルロード編集部 写真/フルロード編集部・三菱ふそう・美川ボデー
*参考:グランプリ出版「国産トラックの歴史」・日進出版「日本のトラックの歴史」


■三菱における自動車産業の勃興

 三菱の自動車事業の試みは三菱造船が設立された1917年から始まる。神戸造船所内に自動車部門が発足し、フィアットをモデルにした日本初の乗用車、三菱A型を開発。1921年までに22台生産されたが、その後自動車事業にはいったん見切りをつけたとされる。

 また、1918年に軍用自動車保護法が交付され、同時期に軍需トラックの試作も並行して行なわれているが、現状は量産とはほど遠い内容であったようだ。

 三菱が自動車事業に本格的に取り組むのは昭和初期の1930年以降とされる。

 なかでも神戸造船所が1932年5月に製作した7リットル、100PSのガソリンエンジンを搭載した「B46型乗合自動車」38人乗りのバスは、鉄道省へ送られ、省営バス納車第1号を記念し、バスの愛称を社内公募。「ふそう」の名前が冠されることになったのである。

 以来、主要車両にふそう名が使用されていくことになる。

ふそうの名が冠されたB46型乗合自動車。なお、ふそう(扶桑)とは中国が日本を呼ぶ際にもちいた古語に由来する

 1934年に三菱造船は三菱重工業に社名を変更し、軍部から兵器生産の要請が強まるなかでディーゼルエンジンの開発が進められ、1935年に7270ccの予燃焼室式直6、80PSディーゼルエンジンを開発。三菱初のディーゼルエンジンバスBD46型などに搭載されている。

 1938年には、関東軍の要請で8000ccのディーゼルエンジンを搭載した、CT20型トラックを完成させたが、軍事産業の統制が行なわれ同エンジンはいすゞ自動車の前身、東京自動車工業で生産が行なわれるようになった。

 なお、当初の東京自動車工業ではディーゼルエンジンが商品化されておらず、三菱製のディーゼルエンジンを搭載した商工省標準型車「いすゞ」が生産さた時期もある。

 いっぽう民生用トラックも開発されており、ガソリンエンジンのTD35型、これを改良したディーゼルエンジンの2トン積みYB40型トラックが1941年に完成。同車は量産されることはなかったが、戦後これをベースにして、いち早くトラック生産を再開させることになる。

■戦後のGHQによる旧財閥解体と三菱ふそうトラック・バスの成り立ち

 戦後、米国による焦土作戦の影響は凄まじく、都市部の交通機関は全国的に壊滅状態に近かった。国民の移動手段は圧倒的に不足し、戦禍を免れた車両や鉄道に市民が群がったといわれている。

 この状況をみた各メーカーの技術者たちはGHQとの交渉を通じ(軍需品である自動車や飛行機、戦艦などは生産が禁止されていた)、物資が不足するなかでアイディアを募り民生用自動車を製造していく。

 三菱をふくめた各メーカーはこうした時期に、さまざま要因で動かせなくなったバスを、セミトレーラやフルトレーラに改造して市民の足として稼働させている。

 いっぽう日本に進駐したGHQは、国力を殺ぐことを目的に、戦時中に軍需品生産を担った旧財閥の解体を占領政策として進めていく。

 国家にも匹敵する巨大なコンツェルンであった、三菱グループも当然この煽りを食らい、三菱重工業は1950年に、東日本重工業、中日本重工業、西日本重工業として、地域による3分割が行なわれた。

 分割当初「三菱」の名は使用が禁止されたが、1952年に許可さたことで東日本は三菱日本重工業、中日本は新三菱重工業、西日本は三菱造船所に変更。そして、1964年に分割された3社が合併し再び三菱重工業となり、1970年には自動車部門が独立して三菱自動車工業が設立された。

 1990年代に入るとバブル景気が崩壊し、長きに及ぶ平成不況に没入。販売低迷加え、2000年代に入ると組織的なリコール隠しの発覚、ダイムラー・クライスラー(現ダイムラーAG)との提携など、それまで乗用車から中・大型商用車まで一貫して生産してきた三菱自動車工業は大きな変革を余儀なくされる。

 三菱は2001年にはトラック・バス部門における戦略的提携パートナーを、ABボルボからダイムラー・クライスラーに変更。そして2003年にダイムラー・クライスラーが筆頭株主となり、三菱ふそうトラック・バスが設立されたのである。

 このときの出資比率はダイムラー・クライスラー43%、三菱自動車工業42%、三菱グループ各社15%であったが、再び2004年に三菱ふそうのリコール隠しが表面化(2000年にもトラック・バス部門を含めた三菱自動車工業でリコール隠しが発覚している)。

 2005年にはダイムラーへの賠償責任から、三菱自動車工業が持つ三菱ふそう全株式が譲渡され、85%の議決権をダイムラーが取得、ダイムラーの連結子会社に編入されることになった。

 そして三菱ふそうは現在、ダイムラーが89.29%、三菱グループ各社で10.71%の株式を保有する、ダイムラートラックグループの一員となっている。

三菱ふそうの現行ラインナップ。左から、エアロエース、ファイター、エアロスター、キャンター、ローザ、スーパーグレート、エアロクイーン

■戦後から高度経済成長期を支えた三菱自動車工業のトラック・バス

 ハナシは前後してしまうが、三菱では戦後~高度経済成長期までどのようなトラック・バスが製造されてきたのか見ていこう。

 戦後まもなく、民需へ転換することを余儀なくされた三菱は、各製作所でトラック・バスの生産が試みられていた。

 京都製作所では、かつて川崎製作所が開発したYB40型の図面を参考に、1946年に4トン積みKT1型トラック、同年、東京製作所では戦前に試作したCT20型を参考に、7トン積みT47型トラックが試作されている。

 ただ、KT1型は改良されKT2型も生産されたが1949年に生産中止、T47型においては量産されることはなかったとされる。

 いっぽう川崎製作所では、戦後のブランニューモデル第一号となるB1型の試作を1946年にスタート。まずB1型バスがつくられ、ガソリンエンジンの7トン積みB1型トラックが1948年に完成した。また1949年には改良モデルのB2型も発売。

 これらのトラックは現在のようなラダーフレーム構造は持ち合わせず、本格的にトラック製造が行なわれるようになる1950年以降になると他社との競争が激化し、専用フレームの開発が行なわれる。

 そしてラダーフレーム構造の8トン積みT31型トラックを1951年に完成させたのである(ショートホイールベースのT32型も後に追加)。またこれと別に東京製作所で同年、6×6の装輪駆動の特装トラック、W11型(4トン積み)も製作されている。

 主力であるT31型は、1955年にオールスチールキャブの8トン積みT33型へとモデルチェンジし、日本初のエアサスを採用したAT33型、1960年なると改良型のT330型と発展。

T31型の改良モデル、スチールキャブの8トン積みT33型ディーゼルトラック

 T330型は後にモデルチェンジやランナップの拡充が行なわれるが、60年代の早いうちからボンネット型は次第に売れなくなり、時代は今日のキャブ型であるキャブオーバー型へシフトしていく。

 三菱における初の大型キャブオーバートラックは、1959年登場したT380型である。そのわずか3ヶ月後には、ターボチャージャー付き220PSエンジンを搭載した11.5トン積みキャブオーバートラックT390型も登場している。

 いっぽう中型のキャブオーバートラックは1964年に登場したT620型、小型は1963年に登場したT720型、初代キャンターがある。

 また、日本初の小型バス、ローザ(車名はキャンターと同じく今日まで受け継がれている)は1960年に登場している。

1963年に登場した初代キャンター。今も使われているブランド名としては、ふそう、ローザに次いで古い

 日本の高度経済成長を支えた大型トラックのいわば「Tシリーズ」は、60年代後半になると高速道路の建設とともに大量輸送という時代のニーズにあわせ、新型V6エンジンを搭載した前2軸車(T910型)や、セミトレーラ・フルトレーラシャシーなど次々に投入していった。

 1973年のオイルショックをきっかけに終焉を迎えた日本の高度経済成長だが、奇しくも同年、大型のモデルチェンジが行なわれ、TシリーズはFシリーズへと世代交代したのである。

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