ロシアのウクライナへの侵攻開始から3か月近くが過ぎようとしている。だが、当初予想されていた2014年のようなロシア軍によるスマートな「ハイブリッド戦」は展開されず、ひたすら泥臭い陸上兵力による「陣取り合戦」の様子が見えて久しい。
21世紀も変わらぬ「陣取り合戦」
かつて著名なイギリスの戦史家であったマイケル・ハワードは次のように書いている。
いかなる戦争においても、当面の政治目的は領土の支配となる……領土の支配という目的は、第一次世界大戦中にドイツとイギリスの両国がベルギーを自国の支配下に置こうとしたことにも見られるように、ほぼ確実に政治目的として選ばれるものだ。(マイケル・ハワード著、奥山真司監訳『クラウゼヴィッツ:『戦争論』の思想』勁草書房、2021年、153頁)
この文章が綴られたのは1980年代初期のいわゆる「第二次冷戦」が激しくなった頃であったが、現在のロシアとウクライナの戦いを見ていると、相変わらずこの指摘が当てはまっていることがわかる。
21世紀の戦争でも、国家が陸上の支配地域をめぐって争う姿は変わらないのだ。
陸上戦闘よりも大きなインパクト
ところがその一方で、メディアでも見逃されがちなのが、陸の戦況が海に及ぼす影響だ。より具体的に言えば、今回の戦闘が行われている地域に連接する「黒海」(Black Sea)の状況である。
黒海は、4月14日にロシア軍の黒海艦隊の旗艦「モスクワ」が沈没したことで、その重要性が一時的に注目を集めた。
ところがそれ以上に、この内陸にあるいわゆる「閉鎖海」としての黒海が、同戦争における陸上の戦闘よりも世界的に大きなインパクトを持っていることは、まだ十分には知られていない。
そこで今回は、黒海という内陸の海の地政学的な位置づけについて簡潔に解説してみたい。
黒海はロシアにとっての「核心的利益」
地図を見ていただければおわかりの通り、黒海は北岸にウクライナがあり、そこから時計回りにロシア、ジョージア、トルコ、ブルガリア、ルーマニアという国々に面している。
近年においては、南シナ海や東シナ海、ペルシャ湾、地中海東部、そして北極海ほどには戦略面における注目は集めていなかったものの、今回の戦争では多数の大国の思惑やその関係の複雑性、その戦略的重要性から、一気に世界の注目が集まっている。
その理由は、黒海の果たしている役割にある。黒海は、大国たちが占有したいと考える「閉鎖海」であると同時に、それが経済面で世界経済にも大きな役割を果たす「海上ルート」でもあるからだ。
ウクライナ有事が中東の不安定化に?
まず注目すべきは、そこを通過する貨物の量が大きいことだ。黒海の出口であるトルコの支配するダーダネルス海峡を通過する貨物量が、2021年には8億9800万トンで、世界でも有数な海峡であるスエズ運河の12億7000万トンの、なんと約7割にも相当する(参照)。
この世界的にも重大な海上ルートを、ウクライナがロシアのおかげで使えなくなってしまっている事実は重い。今回の戦争の焦点であるロシアによるウクライナ南部である黒海沿岸の占領は、陸上の領土の支配以上に世界経済や政治にとって非常に有害なものとなっているのだ。
その影響は大きい。ご存知のように、今回の紛争でロシアの侵略を受けているウクライナは、世界でも有数の農産物の輸出国家だ。「国際穀物協会」のデータによれば、ウクライナは2020/21年シーズンに世界第4位のトウモロコシの輸出国となっており、小麦では世界第6位の輸出国である(以下の地図を含め、参照元)。
ところがウクライナ戦争開始直後に自国の艦船を自沈させ、ロシアは実質的に黒海を海上封鎖したため、現在は昨年生産した穀物の在庫を積み出しができないばかりか、燃料や肥料も入ってこない。
これは実に由々しき問題である。というのも、2011年には主食に使われる小麦の世界的な値段の高騰が「アラブの春」という政情不安につながって、中東の政治が不安定化したという前例があるからだ。
今回も戦争の影響、とりわけ黒海沿岸の世界有数の穀物の積出港のある海が使えなくなると、世界経済に大混乱をもたらすことは誰にでも予想がつく。ウクライナが黒海沿いの港を穀物の輸出のために使えないことそのものが、世界規模の「地政学リスク」であると言えるのだ。
「ルート」の支配は権力そのもの
黒海のようなルート(通り道)の重要性というのは、地政学的な発想をする人間であれば誰しもが当然のように着目する要素だ。というのも、貿易をはじめとする商業に使えるルートというのは、すなわちそのまま軍事作戦にも使えるものだからだ。
これは現在のロシア軍の陸上の侵攻が、ウクライナ国内の幹線道路沿いに行われていることからも容易に想像がつく。
そしてこのルートを最終的に誰がコントロールするかは、経済的な意味でも政治的な意味でも大きな意味を持つことになる。日本でも徳川幕府が政権を握ってから全国に関所をつくり、箱根や新居によって東海道という主要幹線道路をコントールしたことは有名だ。
ロシアは2014年にクリミア半島を支配下においたように、今回もアゾフ海の港であるマリウポリやオデッサ、さらにはウクライナにとっての黒海経由の輸出ルートそのものをロシアのコントロール下に置こうとしている。
ルートを握れば、軍隊を容易に動かせるだけでなく、そこから敵対的な勢力を監視したり軍事的に阻止するだけでなく、そこを通過する人々から徴税したりすることも可能になるからだ。ルートの支配は、すなわち権力そのものとなるのである。
世界経済は海上輸送で成り立っている
私が監訳した『不穏なフロンティアの大戦略』(中央公論新社)の著者の一人でアメリカの官僚・学者であるヤクブ・グリギエルは、デビュー作となる『大国たちと地政学的変化(Great Power and Geopolitical Change)』(未邦訳)という本の中で、近代地政学の祖とされるハルフォード・マッキンダーに倣う形で、16世紀の欧州列強の台頭によるいわゆる「大航海時代」の幕開けについてこう主張している。
資源の運搬ルートが、それまでユーラシアの陸上に限定されていたものから、その周辺や南北アメリカ大陸をつなぐ、海上ルートへと変化したおかげで実現した。
これを言い換えれば、それまでのランドパワーに有利だった状態が、大規模な帆船や航海術の発達を通じた交通革命によるルートの変更とその支配者の変化によって、シーパワーに有利な時代(「コロンブス時代」と言う)に変化したということだ。
マッキンダーは今から百年以上前の1900年代の時点で、「すでにシーパワーが有利だった時代は終わりを告げ、鉄道や道路の発展のおかげで陸上交通が有利なランドパワーの時代がやってくるはずだ」と考えていた。これを彼は「ポスト・コロンブス時代」と名付けている(ハルフォード・マッキンダー著、曽村保信訳『マッキンダーの地政学――デモクラシーの理想と現実』原書房、2008年)。
ところがその後の実際の歴史の経緯を見てみると、世界経済における海上輸送の優位はほとんど変わっておらず、たとえば海運は、現在でも世界貿易のうち、重量基準で 9 割強、金額基準でも7割前後を担った状態が続いている。
ちなみに海に囲まれた島国である日本では、国際貨物輸送は当然ながら航空輸送と海上輸送に限定されており、重量に基づく評価では海上輸送が全体の 99.7%を占め、航空輸送の割合は 0.3%となっている(参考)。
つまりシーパワーが有利な、マッキンダーの言う「コロンブスの時代」はまだ続いており、世界政治や経済においても、相変わらず海上ルートの重要性は高いことがわかる。
「海」が持つ潜在力に注目を
ウクライナの場合、自国の経済の大部分を占める農産物の輸出をほぼ海運に頼っているため、黒海の港がロシアに封鎖されている状況は国民にとっても、国家にとっても死活問題である。しかもその影響は、ウクライナだけでなく世界経済にとっても深刻であることがわかる。
もちろん私は現在の戦域から外につながる「黒海」の趨勢が、ウクライナ情勢のすべてを決めると言うつもりはない。
だがその海が果たしている海上ルートとしての機能と、今後の趨勢は、陸上の戦域以上に大きな影響を持つ潜在力がある。このことはもっと注目されても良いのではないだろうか。