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 いすゞ自動車の創立記念日は、東京自動車工業株式会社が設立された1937年(昭和12年)の4月9日である。しかし、そもそものルーツというべき石川島(東京湾、隅田川河口の中州)の造船所は、ペリーが来航した幕末の1853年(嘉永6年)に設立された歴史を持つ。

 その後、株式会社に改組された東京石川島造船所が、東京瓦斯電気工業とともに自動車製造を企画した1916年(大正5年)が、いすゞの「創業」とされている。

 自動車製造は英国車のライセンス生産を始めたのち、1922年にはA9型国産乗用車第1号車が完成したが、コスト高のため販売は困難を極める。関東大震災の被災によって多大な借入金が発生した影響もあり、同社は国の補助が受けられる軍用保護自動車への転換を決意した。

 これが現在の商用車メーカーに至る1つのきっかけとなったいっぽうで、当時の国産車は、外国車に到底太刀打ちのできるものではなかった。そこで外国車に負けない、いい自動車をつくろうと官民挙げて商工省標準形式自動車「いすゞ」を作り上げたのである。

文/フルロード編集部 写真/いすゞ自動車・フルロード編集部
出典/いすゞ自動車史・いすゞ自動車50年史・新幹線をつくった男 島秀雄物語(小学館)・国産トラックの歴史(グランプリ出版)
*2011年1月発行「フルロード」第3号より


■日本の自動車工業の確立を目指して

 日本の自動車産業の生い立ちは、民間ベースで早くから事業が振興された欧米と異なり、大正から昭和にかけて国産の軍用トラックを必要とした陸軍の意向によるところが大きかった。それを象徴するのが「軍用保護自動車」である。

 これは、国産軍用車の奨励策として、全備重量4t、積載量1.5t以上、エンジン30馬力以上など一定の要件を満たす車両に対して、メーカー、ユーザー両方に補助金を出す制度で、1918(大正7年)年に「軍用自動車補助法」として交付された。

 その狙いは、戦争となった場合には大量の軍用自動車が必要となる、しかし平時から軍に配備しておくことは予算的に無理である。そのため、メーカーに補助金を出して製造させ、それを民間に所有させておき、有事には徴発するという考え方で、対象となったのは自動貨車のみであった。

 この適用を受けたのが東京瓦斯電気工業、石川島自動車製作所、ダット自動車製造で、当時の国産3大メーカーである。昭和恐慌下の日本では、ノックダウンで生産を始めていたフォードやGMなど外国メーカーに技術的にも価格的にも太刀打ちできず、3大メーカーは経営的に苦しい状況が続いていた。

 こうした状況から1930年、商工省が自動車国産化促進の大方針を打ち出し、翌年6月に自動車工業確立調査委員会が設置された。国産3社と官側が一つになって、一刻も早く低価格で実用性のある、大量生産ができる「標準形式」の自動車を製造し輸入車に対抗しようということにあった。

石川島造船所初の軍用保護車両「ウーズレーCP型トラック」(1924年製)。同社は当時英国の大手自動車メーカーであったウーズレー社と技術提携を結んでいた

■商工省 標準形式自動車誕生の経緯

 かくして開発されることになった商工省標準形式自動車の共同設計には、鉄道省・島秀雄、陸軍(技師)・上西甚蔵、石川島自動車製作所・楠木直道、東京瓦斯電気工業・小西晴二、ダット自動車製造・後藤敬義らがあたった。

 分担別には、鉄道省がフレーム、ステアリング、ロードスプリング、ボンネットまわり、ダッシュボード、石川島がエンジン、東京瓦斯電気工業がフロントアクスル、リヤアクスル、ホイールブレーキ、ダット自動車がトランスミッション、クラッチ、プロペラシャフトであった。

 鉄道省の島秀雄は、当時29歳。後に「新幹線をつくった男」として知られ、初代宇宙開発事業団理事長も務めた島は、このプロジェクトでは幹事という肩書で最末席に座っていたとされるが、徐々に非凡な才能を発揮し始める。

  標準形式自動車の製作・設計の拠点は、汐留駅近くの鉄道省の工場に置かれ、そこでは、アメリカから輸入したダッチやGMCなどのサンプルの貨物自動車4台に、日本でも大量に走っているフォードやGMの乗用車2台を加え、これら6台を最終的には分解し徹底的に調べ上げたという。

 それらのデータも加味しながら、標準形式自動車の開発が進められるのだが、当初メーカー3社の思惑もあり、なかなか作業が進展しなかったという。それを若輩の島がうまく取りまとめていくことで、次第に皆の信頼を得るようになり、このプロジェクトは島を中心に回りだす。

 実は、島は大の自動車好きで、後述する標準形式自動車の試作車のテストドライバーも買って出たという。しかも裸シャシーの上に箱を括りつけ、その上に座布団を敷いて腰かけ、ほとんど舗装されていない当時の東海道をずっと運転したというのだから、島がいかにこのプロジェクトに情熱を注いでいたか窺い知れるだろう。

■標準形式自動車「いすゞ」の誕生

 石川島自動車製作所が担当したエンジンは、コスト低減を狙って、それまでのA6型エンジンに比べ、材料および工作法を大量生産向きにしたものであった。仕様も6気筒、直径90mm、ストローク115mm、排気量4.39L、1500rpmの45馬力、時速40kmと定められ、X型エンジンと命名された。

 このX型エンジンは1932年に完成。シリンダボディ、クランクケース上半部を一体鋳造したものである。また、軍用の場合はマグネット点火式にし、それはXA型エンジンと呼ばれた。

 1931年9月、商工省標準形式自動車の試作が開始され、翌年3月、5車種9台(各車種2台、BX45のみ1台)が完成。1カ月間、約1000kmにおよぶ性能試験の結果を活かしてTX35(1.5t積み)、TX40(2t積み)、BX40(32人乗りバス)の各1台を再試作し、同年11月完成した。

商工省標準形式自動車として誕生した積載量2t、ホイールベース4.0mのTX40(1936年製)

 さらに東京、神奈川、静岡にわたる運行試験を繰り返し、不具合が修正され1933年8月、商工省標準形式自動車は完成した。

 ちなみに、それまでの国産車は一部の材料や完成品に外国製品を使用していたが、この標準形式自動車においては、材料、電装品、計器類に至るまで国産品が使用され、国産自動車工業の基礎を確立した。

 この自動車は、自動車工業(石川島自動車製作所がダット自動車製造を吸収合併して1933年3月に創立された会社)と東京瓦斯電気工業の両社で製造され、同じ車両でありながら両社の従来の呼称である「スミダ」「ちよだ」として販売されるのは適当ではないとの判断から、1934年の量産開始を機に、伊勢の五十鈴川にちなんで「いすゞ」と命名された。

 もちろん、これが後の「いすゞ自動車」の社名の由来である。

 かくして「いすゞ」は、自動車工業ならびに東京瓦斯電気工業によって大量生産に移ることになったわけだが、満州事変後の日本の自動車工業界の成り行きから、両社とも軍用車の生産に重点が置かれたため、「いすゞ」の生産は思うに任せず、1937年を迎えるに至った。

 この年、両社を併合した東京自動車工業が創立され、「スミダ」および「ちよだ」の生産は中止となり、替わって「いすゞ」の名称が全車両に冠せられるようになる。

 商工省標準形式自動車=いすゞTXおよびBXは、以後改良を続けられ、戦後のいすゞ5~6tトラックへと発展していくことになり、それは日本を代表する近代的で世界に通用するトラックの出発点となった。

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