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 映画監督の河瀬直美氏が12日、東京大学の入学式に来賓として出席し祝辞を述べた。ウクライナ問題に絡め「ロシアという国を悪者にすることは簡単である」などとロシアを擁護するかのような内容。宗教家の考えを勝手に想像して述べたものとしているが、論理的にも破綻している上、主張そのものもピント外れで東大生の嘲笑が聞こえてきそうな祝いの言葉となっている。

■宗教家の言葉を解釈

祝辞を述べる河瀬直美氏(東京大学HPから)

 河瀬氏の祝辞で問題となったのはウクライナ問題に関して言及した部分。これはある宗教家の言葉を、自分なりに解釈して伝えたものである。

 それによると、河瀬氏は最近、世界遺産の金峯山寺の管長と対話をする機会があった。同寺には役行者(えんのぎょうじゃ=修験道の開祖)が鬼を諭して弟子にして、その後も修行をして歩いた歴史がある。そのため、この地域では節分の時に「福はウチ、鬼もウチ」という掛け声で鬼を外に追いやらないという。そのような吉野の里の人々の精神性に敬意を抱いているとする。

 そうした歴史を踏まえ、同寺の管長が「僕は、この中(筆者註・本堂蔵王堂)であれらの国の名前を言わへんようにしとんや」という言葉を河瀬氏は聞き逃さなかったという。

 この後に問題とされた部分へと繋がっていく。既に全文が公開されているので、その部分を前段と後段に分けて引用する。

★前段:…これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。管長様の言わんとすることは、こういうことではないでしょうか? 例えば『ロシア』という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと『悪』を存在させることで、私は安心していないだろうか?

★後段:人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。(以上、東京大学HP・令和4年度東京大学学部入学式 祝辞 から)

■論理的に破綻した河瀬祝辞

 これがテレビやネットで報じられると、多くの反応が寄せられた(FNNプライムオンライン・「『ロシア』という国を悪者にすることは簡単である」映画監督・河瀬直美さん 東大入学式で祝辞 ほか)。ヤフー記事のコメントを読むと、否定的な意見が多数を占めているように思える。

 結論として、河瀬氏の祝辞は、問題の文章が前段と後後で意味が食い違っており、破綻している。

 前段で言っている趣旨は以下のようなことと言っていい。

(1)ロシアとウクライナの正義同士がぶつかり合っている。

(2)ウクライナ側の意見に流されて本質を見誤って、ロシアを悪者にしている。

(3)戦争を正邪の図式にすることで、安心している。

 河瀬氏は管長の言葉を、ロシアを一方的な悪者にするのはおかしい、と感じとったのは文脈から見て間違いない。この(1)~(3)を踏まえた上で、後段で以下のように語っている。

(4)自国(おそらく日本を指している)が他国を侵攻する可能性があることを自覚すべき。

(5)他国を侵攻した際にはそれを拒否したい。

 良く分からないのが、ロシアの場合には「ロシアの正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら」と仮定しているのに、日本の場合には「日本の正義が外国の正義とぶつかり合っているのだとしたら」とは考えないこと。

図・河瀬氏の破綻した論理(作成・松田隆)

 前段ではロシアの侵攻は「ウクライナの側からだけ見ている」「ロシアにも主張すべき正義がある」としているのであるから、後段では日本の侵攻を「侵略された外国の側からだけ見ている」「日本にも主張すべき正義がある」とまとめなければ、前段で管長の言葉の真意を推測し、紹介した意味がない。

 この主張を図式化したのが(図・河瀬氏の破綻した論理)である。ロシアの侵攻にも正義があるかもしれないと管長の言葉を推測しているのであるから、ロシアに正義があれば、ロシア人は侵攻に反対する必要はなくなる。

 ところが、日本が侵攻した場合には、日本は悪のままである。日本にも言い分があり、正義同士のぶつかり合いであるはずなのに、この場合は外国側の意見に流されて本質を見誤ったまま、自分達の侵攻は悪だから批判しよう、止めようと言っているのである。

 今回のようなロシアの侵攻を正義と考えるのか、悪と考えるのか。その最も重要なポイントで、河瀬氏は「ロシアの侵攻は正義」で、「日本の侵攻は悪」としているに等しい。ロシアのような一方的な侵攻、民間人への虐殺は悪以外の何ものでもないと多くの人は考えるはず。それを否定しながら、その根拠も示さず、日本の場合は悪だから批判しよう、悪に同調しないようにしようと言われても、東大生は首を捻るしかないと思われる。

■せめて僕ならこう語る

駐日ウクライナ大使ツイッターの写真から

 河瀬氏が言いたかったのは、要はロシアの情報統制などでウクライナや西側諸国の主張を耳にすることがなく、ロシア人は自国の行動が正義だと思っているから、戦争を止めようとしない。しかし、我々、東大生を含む日本人は、仮に情報統制があっても侵攻は悪いことなので止めよう、ということと思われる。

 その話に説得力を持たせようと考えたのであろう、金峯山寺の管長の話を持ち込んだので、喩えが元の話からズレてしまい、非論理的な主張になってしまったというところではないか。

 個人的には、前段の管長の言葉の解釈、あるいはその表現方法が間違っているのではないかと思う。もし、僕なら、せめて以下のように東大生の前で語ると思う。

★前段:…これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。管長様の言わんとすることは、こういうことではないでしょうか? 例えば『ロシア』という国を悪者にすることは簡単である。けれども、ロシアの人々が、自国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っていると思い込んでいるとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見にばかり耳を傾け、ロシア人がどういう状況に置かれ、どう考えているかという点にまで気を配るべきであったのに、それを怠ってきてはいないだろうか。誤解を恐れずに言うと『ロシア人も悪』と位置付けてしまうことで、私は安心していないだろうか?

★後段:人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。その自覚が残念ながらロシア人にはなかったのではないでしょうか。しかし、私たち日本人は自らの中に自制心を持って、もし、日本がロシアと同じような外国への侵攻をするようなことがあれば、それを拒否することを選択したいと想います。

 赤字部分が付け加えたもので、黒字部分は原文のままである。

■ウクライナを語るなら…

 少なくとも上記のような祝辞なら炎上することはなかったとは思うが、日本がロシアのように外国に侵攻することなど考えられず、ほとんど可能性がない状況に陥った際の心がけを東大の入学式で言う必要があるかと言われると、その必要性などないであろう。

 河瀬氏も東大生に話をするなら、一方的に他国に侵攻し、多くの民間人を殺害しながらも自らの正当性を主張する国家が今でも存在し、日本国憲法前文の「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」が全く空虚なものであり、終戦後の日本での平和幻想が崩れ去った事実を指摘すべきではないか。

 そしてポスト・ウクライナ侵攻の世界秩序の中で日本はどうすべきか、君たち東大生がリードして平和で安全な日本を構築していかなければならないはず、と言えばよかったと思う。

 人と変わったことを言いたい、そのためにロシア側からものを見て東大生に感心されたいと思ったのかは知らないが、多くの東大生は河瀬氏の話を聞いて嘲笑していたのではないかと思われる。