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Lamborghini Miura

新興メーカーに名声をもたらしたミウラ

ランボルギーニ ミウラのアッセンブリーライン。
当時のランボルギーニファクトリーの様子。ミウラのアッセンブリーライン手前には、V12エンジンがずらりと並んでいる。

ランボルギーニ ミウラ。その名は古今東西、いつの時代もスーパーカーの代名詞であり続けてきた。当時、まだまだ新興の弱小メーカーであったランボルギーニの名を決定的に世に知らしめた功労者でもある。何故ミウラは伝説になったのか。誕生にまつわるエピソードとともに、魔性のスーパーカーに魅入られたスターたちを振り返ってみたい。

1963年、イタリアのサンタアガタ・ボロニェーゼに新進気鋭の自動車メーカーが生まれた。自身で興したトラクターメーカーを国内屈指の企業にまで育てあげ、エアコン機器を製造する新事業も成功させた“たたき上げ”の実業家、フェルッチオ・ランボルギーニ。彼が見据えた次のステップは、高級グランドツーリングカーづくりだった。

フェルッチオ・ランボルギーニが夢見た「誰もが息を飲むようなクルマ」

ランボルギーニのレジェンド達。写真左からパオロ・スタンツァーニ、マルチェロ・ガンディーニ、ジャンパオロ・ダラーラ
ランボルギーニのレジェンドたち。写真左からパオロ・スタンツァーニ、マルチェロ・ガンディーニ、ジャンパオロ・ダラーラ。

1964年にはランボルギーニ初の市販車「350GT」を発表。最高出力280psのV12をフロントに搭載し、最高速度250km/hを実現するラグジュアリーGTは、瞬く間に富裕層の間で話題になった。

自動車メーカーとしては後発も後発であり、新興の小さな自動車メーカーに過ぎなかったランボルギーニだったが、350GTと進化版の400GTの成功により存在感を醸成。そして1966年、その名声を決定づける1台のクルマが誕生した。

フェルッチオ・ランボルギーニが夢見た「誰もが息を飲むようなクルマ」。それを具現したのがミウラであった。まるでレーシングカーのようなタブシャシーを採用し、ドライバーの背後には大出力のV12エンジンを横置き搭載、そこに鬼才マルチェロ・ガンディーニの描いた美しいアウタースキンを組み合わせた超独創的なスーパーカーは、1966年のジュネーブショーで人々の視線を釘付けにした。

初期ランボルギーニにとって空前のベストセラーに

ジョルジェット・ジウジアーロが自身のデザインスタジオ、イタルデザインを発足させるためにカロッツェリア・ベルトーネを去った後、事実上のチーフデザイナーとして加わったのが当時まだ20代のマルチェロ・ガンディーニだった。一般的にミウラはガンディーニ作と言われているが、スタイリングの一部にはジウジアーロ作品との共通点が見て取れる。少なくとも、ベルトーネというカロッツェリアが共有する美学として、ジウジアーロからガンディーニへと受け継がれた「スタイリングの傾向」が存在するように見受けられる。

むろん、ミウラの魅力はスタイリングのみにあらず。搭載したのはランボルギーニ自慢の4.0リッター60度V12エンジンで、 トリプルチョーク型のウェバー製キャブレターを4基装備。1966年に登場したP400は350馬力/最高速度170mph(約273.5km/h)、1969年のP400Sは370馬力/172mph(約276.8km/h)、1971年のSVは385馬力/180mph(約289.6km/h)と、当時としては圧倒的なパフォーマンスを発揮した。

ベルトーネによる素晴らしいデザインと、進歩的なテクノロジーがもたらす優れた運動性能が功を奏し、ミウラは空前のセールスを記録。当初は「3年で50台の販売」を想定していたが、結果的には1966〜1973年の7年間で763台ものミウラを売り上げるに至った。

才能に恵まれた若きエンジニア、スタンツァーニの起用

ランボルギーニ ミウラの技術図面
ランボルギーニ ミウラの技術図面。生産型P400のボディは、1.06mという這いつくばるような車高と、全長4.36mのコンパクトな全長、1トンを切る943kgの車重を実現していた。

パオロ・スタンツァーニは、フェルッチオ・ランボルギーニが最初期に雇い入れた技術者のひとりだった。モデナの大学を経て、新卒でランボルギーニに入社した彼は、ファイティングブルのV12エンジンとミウラを語る上で欠かすことのできない人物である。ランボルギーニ初の市販車「350GT」に搭載したV12の完成にも、スタンツァーニが大きく関与している。

フェルッチオ・ランボルギーニが自動車メーカーをスタートするにあたり、最初にエンジン設計者として選出したのがジオット・ビッザリーニだった。ピサ大学工学部を卒業後、アルファロメオの実験部門に入社。フェラーリに移籍後はテスタロッサのV12エンジンや、250GTOを開発した凄腕のエンジニアであった。

大のレース好きで、F1エンジンを作ることを夢見ていたビッザリーニは、「10馬力増えるごとに奨励金を出す」という契約のもと、ランボルギーニのV12エンジンの開発に着手。1963年7月、テストベンチで行われた初の試運転では、9000rpmで360馬力という驚異的なパフォーマンスを実証。しかし、その特性はレーシングカーに近いスパルタンなもので、フェルッチオ・ランボルギーニの考えるGT=グランツーリズモに相応しいものではなかったのである。

少数精鋭の若き才能が集ったサンタアガタ

3.5リッターV型12気筒エンジンを、「より公道走行・大量生産に相応しいキャラクターに改良する」という特命を受けたのが、ジャンパオロ・ダラーラやパオロ・スタンツァーニといった若き才能が率いるサンタアガタ・ボロニェーゼのエンジニアリングチームだった。

ランボルギーニが誇る若き少数精鋭エンジニアの一員としてキャリアをスタートしたスタンツァーニは、テクニカルディレクター、生産マネージャー、そしてゼネラルマネージャーなどを歴任。カウンタックやエスパーダ、ウラッコといったモデルの製造にも広く貢献した。とりわけ、ウラッコは彼の個人的なお気に入りであったという。

映画にも雑誌にも引っ張りだこ

ランボルギーニ ミウラのフロントビュー
フォトジェニックなランボルギーニ ミウラは、『ミニミニ大作戦』や『個人授業』など、数々の映画にも登場した。

ミウラのフォトジェニックなスタイルは、映画界でも注目の的になった。“出演”した映画の数はじつに43作品にのぼり、しばしば主演級の存在感を見せつけている。1963年製作の『ミニミニ大作戦(原題:The Italian Job)』では、オープニングシークエンスの3分間超でP400 ミウラが“名演”。マット・モンローが歌う「On Days Like These」と、加速するV12エンジンの音をBGMに、ロッサノ・ブラッツィがオレンジのミウラを運転するシーンは、自動車映画の世界でカルト的な人気を博している。

もちろん、自動車雑誌の表紙を飾った回数は枚挙に暇が無い。世界の人々に読まれるメディアにミウラが初登場したのは、1966年11月の週刊誌『Autocar』。レーシングドライバーからジャーナリストへ転身した、ベルギーのポール・フレール氏が寄稿したものだった。また、英国のジャーナリスト、“LJK”セトライトが英国の月刊自動車誌『CAR』に寄せた、サンタアガタ・ボロニェーゼからロンドンまでのP400 ミウラ試乗記は最も有名な記事のひとつといわれている。

ロッド・スチュワートやマイルス・デイヴィスも所有

ランボルギーニ ミウラのリヤビュー
世界的なミュージシャンや俳優、モデルも魅了してきたランボルギーニ ミウラ。誕生から半世紀以上経たいまも、その斬新なスタイリングはまったく色褪せない。

ミウラの魔性に魅せられた著名人も数多い。例えば、ロッド・スチュワートやリトル・トニーは複数のミウラを所有。エディ・ヴァン・ヘイレンも、30年以上にわたってミウラを側に置いたそう。ジャミロクワイのジェイ・ケイは現在もミウラのオーナーだ。ほかにも、歌手のエルトン・ジョンやジョニー・アリディ、ジャズミュージシャンのマイルス・デイヴィス、俳優のピーター・セラーズ、モデルのツイッギー、オペラ歌手のグレース・バンブリー、そしてレーシングドライバーのジャン=ピエール・ベルトワーズなど、ミウラを愛した有名人は数え上げればきりがない。

ちなみに、イランの故バーレビ国王(モハンマド・レザー・シャー・パフラヴィー)はミウラを複数台所有していたことで知られ、そのコレクションには、4台のみが作られた“幻のSVJ”も1台含まれていた。


ランボルギーニ 350GTのフロントビュー

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