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劇団「自由劇場」を経て、劇団「東京壱組」の創立メンバーとして活躍。『踊る大捜査線』シリーズ(フジテレビ系)で秋山晴海副署長を演じて大ブレークした斉藤暁さん。

北村総一朗さん、小野武彦さんとともに“スリーアミーゴス”として人気を集め、舞台、CM、バラエティ番組に引っ張りだこに。『科捜研の女』シリーズ(テレビ朝日)、連続テレビ小説『ひよっこ』(NHK)、映画『僕らのワンダフルデイズ』(星田良子監督)、舞台『スウィーニー・トッド』など数多くのドラマ、映画、舞台に出演。

2022年6月3日(金)に公開されるアニメーション映画『とんがり頭のごん太-2つの名前を生きた福島被災犬の物語-』(西澤昭男監督)では、ごん太の飼い主の声を担当している斉藤暁さんにインタビュー。

 

◆高校入学時優秀だった成績がビリに

福島県郡山市で生まれ育った斉藤さんは、小さい頃から元気に外を走り回って遊んでいたという。

「まさか役者になるなんて考えもしませんでした。だけど、マカロニ・ウエスタンの映画を観てきたときは、隣の家にあった木馬にまたがって1時間くらいずっと乗っていてね。そうするとサボテンが見えてくるんです」

-それはすごいですね-

「すごいかどうかわかりませんけど、本当にサボテンが見えたんですよ(笑)。だから、そうやって一人遊びをやっていたのかもしれないですけど、まさかそれが役者になんてつながらなかったね」

-幼稚園とか小学校などの学芸会では?-

「全然僕には役なんてないですよ。バカだったから(笑)。だいたい役をつけられる子というのは“いいところのぼんぼん”とか、頭のいい子なんですよ。僕は成績が下のほうでしたからね。全然ダメでした。

僕はやりたかったんですよ。でも、たぬきのポン太とか、たくさんのたぬきの中の一人みたいな感じでね。『そうだ、そうだ!』みたいなことをみんなで言うだけ。何かセリフが言いたいなあと思ったことは覚えていますよ。

そこはいいとこの坊ちゃんお嬢ちゃんが来る学校だったんですよ。僕は学区外だったんだけど、おやじが兄弟で自分のでんき屋を継がせたかったから、ちょっと頑張っていい学校に入れようとしたみたい」

-それでお兄さまと家業を継ぐことに-

「そうなんです。それで工業高校の電気科に入ったんですけど、入ったのは間違ったなとすぐに思った。好きじゃないというのがわかったんですよ(笑)。

高校に入ったときは、級長をやらないかって言われたくらい優秀だったんだけど、どんどん成績が落ちちゃって、最後はビリになりましたもん。45人中44番。45番のやつは試験を休んでいたから実質ビリ(笑)」

※斉藤暁プロフィル
1953年10月28日生まれ。福島県出身。地元劇団で活動をはじめ、劇団「自由劇場」と創立メンバーとなった劇団「東京壱組」で約20年間、数多くの舞台に出演。1980年代半ばから映像作品にも出演するようになり、連続テレビ小説『はね駒』(NHK)、『電磁戦隊メガレンジャー』(テレビ朝日系)、『踊る大捜査線』シリーズ、『科捜研の女』シリーズ、映画『マエストロ!』(小林聖太郎監督)、映画『台風家族』(市井昌秀監督)など出演作多数。特技のトランペットを活かしバンド活動も行っている。

 

◆父親と大ゲンカ。家業を辞めて地元テレビ局に

高校卒業後、兄とともに家業のでんき店で働きはじめた斉藤さんだったが、イヤで仕方がなかったという。

「2年くらい手伝ったときに、とうとう僕が『イヤだ』って言ったんですよ。それで唯一の慰めだった『オールナイトニッポン』(ニッポン放送)を聴きながら寝ていたら、おやじがそのラジオで僕の頭をバーンってやって、ラジオがバラバラになって飛んだんですよ。いまだに覚えていますよ。『僕の大事なラジオが…』って。

とても直せる状態じゃない。バラバラで再起不能ですよ。それでもう聴けなくなっちゃったんです。仕事にはイヤイヤ行っていましたけど、あの頃は灰色でしたね」

-家業のでんき店を辞めたきっかけは何だったのですか?-

「家を脱出ですよ。おやじとつかみ合いのケンカをして家を出ました。友だちが地元のテレビ局に就職していて、1人抜けたから入れるみたいだと聞いて入ることになって、4年間いたんだけど大変でした。

クリエイティブな仕事だったらいいなあと思っていたんですよね。番組を作るとか、何かを作るというところに関われるといいなと思っていたんだけど、全然違ったんですよね。照明と大道具を一人ですべてやることになって、それがきつくてね」

-照明と大道具をよく一人で4年間もやりましたね-

「そう。若かったからね。結局病気になっちゃいましたけど。腎臓。腎盂炎。ストレスもあったんじゃないかな。1カ月間入院しました。

テレビ局に勤めていた後半の2年間くらい地元の劇団に入っていたんですよ。1年に1回公演もやったりしてね。その人たちと『こういうのを作ろう』とか、いろいろ喋っているのが楽しかった。おもしろいなあと思って。

みんな純粋できれいだからね。テレビ局にいると裏もみんな見えちゃうじゃないですか。純粋に何かをしようという感じじゃないんだよね。『ここにずっといるのもイヤだなあ』と思うようになりました」

そんな思いを抱えていたときに出会ったのが、同郷の画家・猪熊克芳(いのくまかつよし)さんだったという。

「猪熊さんは画家として大成しようと東京に出たんだけど、家の事情で帰ってきた人なんですよ。今はすごい画家になりましたけど、彼には恩義がありますよ。あの人が『君は東京に行かなきゃいけない。今やらないと後悔するぞ』って、僕を焚きつけたんだから。熱い方なんですよ。

自分で『田吾作会』というグループを作って、何をするのかと思ったら、『みんなで畑を作ろう』って。たくさん空き地があるから貸してくれる人がいるんですよ。それで空き地を借りて彼が先頭に立って畑を作って、芋を作ったりとか。

20人くらい入ったんだけど、ほとんど誰も畑仕事をやらないのに、彼一人でやっていましたよ。『草鞋(わらじ)がいいんだ』って言って草鞋を穿いて本格的に。そういう人なんですよ。

その場所がちょっと遠いので、『芋ができたから』って、車を自分で運転して行っていましたよ。偉いなあって思った。『あんたは偉い!』って言ったもん(笑)。それ以外にも『田吾作会』のみんなで宇都宮の陶芸を見にいこうというツアーをやったり、『黒テント』という劇団を福島に呼んだりね」

-すごい行動力ですね-

「そうなんですよ。自分で芋版を作って。向こうから送られてくるポスターに、『田吾作会』という芋版をポンポンポンポン押してね。芋だよ(笑)。

そんな人と知り合って、僕も試しに『自由劇場』という劇団の試験を受けてみたら受かったんでテレビ局を辞めました。それで、当時付き合っていて一緒に劇団に入っていた彼女と結婚して、郡山で彼女と最後に二人芝居をやることにしたんだけど、その美術も猪熊さんがやってくれて。

客が50人くらいしか入らないところなんだけど、最後は客席を“きれ(布)”で覆いたいって言うんですよ。そんなに大量のきれはどうするのか聞いたら、蚊帳(かや=蚊や害虫が入らないように、四隅を吊って寝床を覆うもの)にするって。

今はもうみんな使わなくなったから、田舎のほうに行くと蚊帳を絶対に持っていると言って、彼一人で蚊帳を何枚ももらって来て、それを彼のお姉さんが縫ってくれて、一枚の大きなきれにしてくれたんですけど、その前に脱色しなきゃいけないって言って、阿武隈川で一人で脱色したんですよ。

ドラム缶に脱色剤を入れて、その下で薪を燃やしてお湯にして蚊帳を入れて。それを全部彼が一人でやったんですよ。猪熊さんてそういうすごい人なんですよ。その人が『東京に行くべきだ』って言うから、『じゃあ、行かなきゃいけないんだ』って思ったんだよね」

-猪熊さんに言われてなかったら今の斉藤さんはいないわけですね-

「そう。『あんたが言ってくれたんだ』って今でも言うんですけど、そうすると『いや、俺には責任ないからな』って(笑)」

-でも結果的には良かったですね-

「まあね(笑)。ここまでなると思わなかった。あの頃はまだバブル前だったからね。今『やる』って言ったら僕は大反対する。あの頃はバブル前で何とかなったんだよ。『芝居をやっている』って言うと、『偉いね。これ食べな』ってご近所の人が食べ物をくれたりしてね(笑)。周りの目が優しかったんだよね」

 

◆稽古場で「福島に帰れ!」と連日罵倒され…

奥さまと郡山で最後に二人芝居をした後、上京した斉藤さんは「自由劇場」に通いはじめるが、福島訛りが取れず、稽古のたびに罵倒される日々だったという。

「上京したはいいけど、とにかく仕事はないし、いろんなアルバイトをしました。自由劇場はお金なんてくれないですからね。ずーっとただ働きですよ(笑)。『上海バンスキング』という芝居で、やっとお金がもらえるようになったんです」

-劇団でも結構大変だったそうですね-

「何度も『福島に帰れ!』、『使えない』って罵倒されましたよ。福島弁の訛りが取れなくて、もうノイローゼになりそうでした。だからアクセント辞典を買って、どこにアクセントをつけるのか印をつけて練習して。

でも、そうすると訛りの矯正とアクセントばかり気になっちゃって、感情なんて入れるどころじゃないんだよ(笑)。あの劇団はシェイクスピアをやっていたから、『田舎のシェイクスピアか、お前は』って言われていてね。標準語っていうのは冷たいよね」

-辞めようと思ったことは?-

「何度も思いましたよ。『この芝居が終わったら辞めよう』と思っていたら、配役表にその他多勢とかに自分の名前があって、『じゃあ、これをやってからにしよう』って感じでどんどんすぎていって。

いい役なんてほとんど来なかったけど、やっぱり自由劇場はセンスのいい劇団だったんだよね。福島市とか郡山市とかでは観たことがないおしゃれな芝居をやるんだよ。

ちゃんと膝を正して観なきゃいけないみたいな作品じゃなくて、そんなのを全部吹っ飛ばした感じの芝居ばかりやっていたもんね。

『ワーッ!』って叫ぶだけとかね。お客さんがすぐ目の前にいるんだもん。『嘘だ!』って思った。そんなの観たことなかったからね。『自由劇場の試験があるよ』ってカミさんから言われて観にいってみたら度肝を抜かれたね(笑)。『都会ってこんな感じなんだ』って思って、田舎者の目からウロコというか…」

-試験を受けた人はどのくらいいたのですか-

「200人くらいで残ったのは50人。それも1年でどんどん辞めていったから、最後に残ったのは25人くらいかな。審査する側には、吉田日出子さんとか、あとは知らない人たちがズラーッといてね。『お魚やってください』って言うんですよ。

『お魚?お魚やれないなあ』って思ったんだけど、必死でしたよ(笑)。それで、『どういう役者になりたいんですか?』って聞かれたんだけど、わからないから『日本一の役者になりたいです』って答えたのを覚えている(笑)。何て田舎っぽいんだろうって。もうちょっと何か言い方がなかったかなって思うんだけどね。恥ずかしい(笑)。

後から聞いたんだけど、吉田日出子さんが僕のことを気に入ってくれたって。ステキな人ですよね。すごかった。晩年の頃、一緒に舞台をやったときに、彼女が風邪をひいていたんですよ。だけど、出番を待っているとき、僕はちょうどすぐ後ろにいたんだけど、からだ全体からすごい圧が感じられて、『すごいなあ、この人は』って思った。風邪なんてまったく感じさせない。ものすごかった。そういう人に出会ったというのは、俺の中で大きな財産。すごい女優ですよ。

稽古場で毎日『福島へ帰れ!』って罵倒されて、このまま芝居を続けていいのかなと迷っていたときに『役作りはいいほうへ行っているよ』と声をかけてくれたのも吉田日出子さんでした。それで、訛りの矯正とアクセントにばかりこだわっていてはいけないなと。あのとき声をかけてくれなかったら、今の俳優人生はなかったかもしれないですね」

1986年、斉藤さんは、自由劇場出身者の大谷亮介さん、余貴美子さんとともに劇団「東京壱組」の創立メンバーとなり、映像の仕事も本格的にはじめることに。次回は『電磁戦隊メガレンジャー』、『踊る大捜査線』シリーズなどの撮影エピソード&裏話も紹介。(津島令子)