■「ル・マンのチェッカーは圭ちゃんが受けてよ」
――それからしばらくして、国さん、土屋さん、飯田章さんでNSXでル・マンへ出場されて、当時、国さんが「チェッカーフラッグは圭ちゃんが受けろ」とおっしゃったそうですね。
「もうあれはね、涙が止まらなかった。それは国さんがやらなきゃいけないことですよって何度も言ったのよ。『圭ちゃん、チェッカー受けて』って言われた時に、涙が止まらない、ほんとに。『できません』って。もう『できません』しか言えない」
――チーム国光として立ち上げられたのに、その大舞台の締めくくりを土屋さんが任せられたということですもんね。
「はい」
――当時、海外の人たちの目は日本人に対して厳しかったと思うのですが、実際に現場に行かれてどう感じましたか。
「当時はね、『アジアの猿』っていう扱いですよ。ヨーロッパの人たちにとっては、モータースポーツは貴族のスポーツって認識が強くて、だからそれをアジア人が真似事しているとしか思っていない。
『アジア人ごときが』っていう目でしか見られない。それは当然、国さんも分かっていた。だから『海外に出たら舐められない日本人にならないとね』っていうのが国さんの口癖でした。
『日本人だからホンダに連れて来られたとか、ブリヂストンに連れて来られたって言われるドライバーじゃだめだよ』って。『自分の力で彼らを認めさせないとだめだよ』という言葉ははっきり覚えていますね」
――土屋さんは、その後もトヨタからル・マンに出て、ナイトセッションでトップタイムを刻んだりと活躍されていましたが、国さんとのル・マンの経験によって、後に影響したことはありましたか?
「僕は、ル・マンで変わりましたね。90年代前半って、僕なんかはまわりから暴走族あがりって思われていました。確かに峠の走り屋あがりだから間違いじゃない。まわりはみんなエリートで、カートから上がってきたドライバーばかりだったからね。そういう目で見られてもしょうがないかもしれない。
ただ、実力を認められずに『高橋国光にくっついてるやつだろ?』って見方をされるのは、許せなかった。
国さんに認められるドライバーなんだっていう仕事をしないと、いつまで経ってもまわりから『高橋国光にくっついてるやつね』って言われるなと。だから『国さんに認められるドライバーになる』って俺は決めてました。
この人の名を汚しちゃいけない。この人が選んだドライバーってやっぱりすごいなって世界でも思わせなきゃいけない。だから予選はタイムで見せるしかない。決勝ではバトルで見せるしかない。絶対に引かない、でも汚いことは絶対しないって。
国さんの考え方を守りながら、アグレッシブなバトルをする。そうすると段々、高橋国光にくっついているやつじゃなくて、『土屋ってスゲーな』って思ってもらえるようになる。それが僕の中では、国さんへの恩返しだと思っていました」
■「人が死ぬんだよ、このスポーツは」
――舞台は日本に戻って、全日本GT選手権、スーパーGTで土屋さんが現役で戦っていた頃、国さんとドライバー同士で戦う機会があったと思いますが、その時はどういった心境でしたか?
「あんまり気になんなかったですよ。もうライバルじゃないんですよね。身内と走っているっていう感覚。僕はトヨタに行ったから、走っていると国さんとコース上で遭遇しますよね。そうすると、何だか『見守りたい』って気持ちになる。
僕がピットアウトして、国さんの後ろについて、しばらくするとタイヤが温まってきて、抜こうと思えば抜けるけど、『少し見ていたいな』っていう『少し守りたいな』っていうレースをしてましたね。歳の差はあるんですけど、『親心』みたいな気持ちです(笑)。『俺が守んなきゃ!』みたいなのはありましたね」
――国さんから褒められたり、励ます言葉をかけられたことはあったんですか?
「毎回ですよ! 圭ちゃんすごいね〜すごいね〜って、やめてくださいって感じですよ本当に(笑)。あの人はね、人を乗せるのが上手い。それはエンジニアでもドライバーでも。褒めることしかしないから」
――逆に叱られたことはありますか?
「ありますよ。子供の時は、レーシングカーの激しいバトルを見てて、『あれをやっていいんだ』って思ってましたし、実際にレースに出るようになって『やられたらやり返す』をやったら、国さんがレース終わった後に、『相手が怪我をするような、死んじゃうような行為は絶対しちゃいけない』って言われましたね。
グループAでの1年目は、言われたことに対して『はい』『そうですね』ってことしか返せなかったけど、2、3年目になると、ようやく僕からも質問できるようになって、『子供の頃、国さんたちのマツダとのバトルを見てて平気だと思っていたんですけど、今は駄目なんですね』って言ったら『人が死ぬんだよ、このスポーツは』って。
自分が行きたいから行くんじゃなくて、相手がどうなるか考えなきゃいけないっていうことは国さんに教えられましたね。その後は、やられてもやり返すことはなくなりましたね。それまでは、グループAでもJTCCでも『絶対やられた同じことやり返してやる』って思ってましたから。国さんは、それを許さなかった」
――当時、『ベストモータリング』でクラッシュの要因を作った選手に対して「命をなんだと思ってんだ!」って怒っているシーンがありましたよね。それがすごく印象に残ってます。それも国さんの教えの影響なのでしょうか?
「そうですね。やっぱり国さんの言葉は忘れられなかったですね。自分たちは、人が死ぬようなこと、入院させるようなことができてしまう武器を持っているんだよ、って。包丁とかの使い方と一緒で、本来の使い方以外に使っちゃだめなんだよって。それは忘れらんない。
あの人が僕に諭したのはそれくらいだったと思う。国さんって滅多にそういうことを言わなかった。あの時は相手が立川祐路だったんだけど、僕が立川に怒鳴ったのも、僕の中に急に国さんが出てきたような感覚でしたね(笑)。
ドライバー同士だと分かると思うけど、コツンとぶつけて『ここにいるよ』っていう挨拶みたいなものはあるんですよ。それが、ドカーンと来るのは、だめ。それがあの時はドカーンだったので。
僕は先にピットインして、燃料100L満タン入れて、その後2周目に入ってたけど、立川は逆にタイヤが冷えてて。4速に入っていたから200km/hにはなっていたでしょうね。そこでドンってやられたから、真後ろ向いてそのままガードレールにぶつかった。
『こうやって人って死ぬんだろうな』って。もう国さんに怒られてもしょうがない、絶対殴る! って思いましたね。でも今の立川は絶対にそういう危険なことはしないし、皆さんもイメージがないと思う。国さんの教えが受け継がれているなと思っています」