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■ハコスカに憧れ、GT-Rと共にグループAに挑む

「俺は高橋国光になる」。際どいエピソードも交えつつ国さんに憧れた少年時代を語る

 ――土屋さんは2輪にも乗られていたそうですが、元々4輪への興味もあったんですか?

 「もちろんありましたよ。中学の時から親父が寝てから家のクルマを乗り回していたんで(笑)。もちろん近所でね!

 小学校の時に、コロナやRX-3、ハコスカが戦っていた日本グランプリを見て、親父に『スカイライン買って』ってお願いして。その時から『ハコスカに乗っているこの人を見に行きたい』っていう思いがありましたね」

 ――土屋さんといえば“ドリフトキング”の称号でも有名ですが、当時国さんもスライドしながらコーナーを駆け抜けるような走り方をしていました。そういった走り方にも国さんへの憧れがあったんですか?

 「もちろんです。『俺は高橋国光になる』と思ってましたから、それは走り方も同じです。

 小学校の時にテレビで見た光景は忘れられないですよ。富士スピードウェイのバンクから降りてきて、S字とか横山コーナーで、国さんは逆ハン当ててて『スゲーな!』と。やっぱりクルマの限界まで使わないと、滑るところまでいかないわけじゃないですか。免許を取ってからその走り方の意識はしていましたね」

■「時代遅れの高橋国光」報道に対する憤りと奮起

「土屋圭市は高橋国光のファン」と認知されたことで人脈も広がり、やがて一緒に戦うこととなる

 ――90年代になってから、グループAで国さんと組んでいましたが、それはどういうきっかけだったんでしょうか?

 「F2かグラチャンか忘れちゃったけど、それがメインレースだった時に、僕はその前座でJSSっていうレースに出ていたんですよ。

 結局、雨がひどくてメインレースは中止になったんですが、JSSだけが開催されることになって、そこで僕がRX-7で雨の中で優勝したんです。国さんたちは自分たちのレースがなかったから見ててくれたんでしょうね。

 そこで表彰台から降りてきてパドック戻るまでに、日産のガレージの前を通るんですけど、そこにレーシングドライバーの皆さんもいらしてね。星野一義さんが『おい!』って声かけてきて。『怒られるのかな?』って思ったけど『お前、名前は何ていうんだ?』『土屋圭市と申します』って。

 そしたら国さんが『ほぉ〜』って(笑)。そこで国さんは僕のことを覚えてくれたのかなって、今は思いますね。その時から『土屋圭市は、高橋国光のファン』というのが認知されていったんだと思います。

 それから90年になって、タイサンの千葉社長が『高橋国光と組ませてやるから』と言ってくれて、それはもう嬉しかったですよね」

 ――当時のグループAは、32GT-Rのワンメイクレースかと思うくらい盛り上がっていました。そんな中で国さんとGT-Rで一緒に戦うというのはどんな心境だったんでしょうか?

 「嬉しくてしょうがないですよね。それまで僕はシビック、BMW、フォードシエラに乗ってて、当時はフォードシエラが世界一速いクルマだと言われていましたが、そんなフォードシエラを周回遅れにするくらい速いGT-Rに乗れる、そしてずっと憧れてきた高橋国光と同じステアリングを握れる、これはもう緊張なんかしないですよ。嬉しくてしょうがない、それだけでした」

 ――当時は、モータースポーツメディアに「国さんは60〜70年代のドライバーで、もう時代に合っていないんじゃないか」と書かれていた記事もあったと思います。それはどうご覧になっていましたか?

 「もうその記事にはムカついたよね。雑誌の名前は言わないけどハッキリ覚えてる。当時はマスコミが全員敵だと思ってました。高橋国光を終わった人みたいに扱ってる、って。認めたくないんですよ。時代はもう星野一義になってきている。もちろん分かっているんですよ、分かっているんですけど、国さんとそれをやっつけたいなって。それだけを考えていました」

 ――そして、優勝を成し遂げたのが1993年のオートポリスだったと思いますが、勝てる予感はあったんでしょうか?

 「ありました。その前のSUGOで3位になった時に『これは上手くいけば勝てる』という実感はありましたね。オートポリスのことは嬉しくて記憶が飛んじゃってるんですけど(笑)、SUGOは鮮明に覚えていますよ。国さんの、目と言葉と仕草、全部覚えている」