日刊スポーツの競馬記者一筋の堀内泰夫さんが2月6日に亡くなった。旅立って3か月、かつての部下として思い出を書くことで、追悼としたい。
■76歳で他界 中央競馬一筋
堀内さんは2月6日午前9時に肺がんのため、千葉県内の病院で死去した。76歳だった。1968年(昭和43)に日刊スポーツレース部に配属となり、以後、中央競馬一筋。本紙予想を20年以上務めていた。
僕が競馬担当だった時期はずっと本紙担当であり、予想欄の一番下にどっしりと「本紙・堀内」が来る安定感は当時の日刊スポーツの売上に貢献していたのではないかと思う。
僕が競馬担当になったのは1985年8月。それまで新人研修のような形で野球担当をしていたが、いきなり新潟競馬に出張に行くことを命じられ、堀内さんと一緒に新幹線で新潟に向かった。僕は競馬なんて見たこともなく、しかも管理職の堀内さんとは初対面、それがいきなり新幹線の中で2人きりになるのは大学を4か月前に卒業したばかりの新社会人には重荷だった。
しかも、堀内さんは「俺はよ、こういう高速で移動する乗り物が苦手なんだ」と言って、苦虫を噛み潰したような顔をしている(実際、本当に新幹線が苦手だったようである)。2人の間に流れる何とも言えない重い空気に耐えかね、僕は「音楽を聴いていていいですか?」と聞き、その後は新潟駅までウオークマンでサザンオールスターズか何かを聴いていた。
僕は会社の人間とは私生活では全く関わらないようにしており、仕事と私生活ははっきりと分けていた。それが当時の会社の上司の不興をかったようで、特に部長からはひどく嫌われていた。その部長が他の部員に僕の悪口を言っていたことも耳に入っていたし、周囲も僕に近づくことはなかった。
そんな中、当時次長職だった堀内さんは僕に対して「少しはみんなと仲良くしたらどうだ」とか、「サラリーマンとして上司にも気を遣った方がいいぞ」などと押し付けがましいアドバイスのようなものは一切しなかった。堀内さんも部長に媚びるようなタイプではなかったというのもあるのだろうが、(人間は好きなように生きればいい)という感じで理解を示しているように、僕には感じられた。
■タマモとオグリ芦毛対決の裏で
堀内さんと僕は上司と部下であるが、その関係を一言で言うのは難しいが決して悪くはなかった。日頃の仕事ぶりを認めてくれたのか、ジャパンカップの外国馬や、その頃、強くなってきた関西馬のように、これまであまり日刊スポーツ東京本社が取材してこなかった部分で僕を起用してくれた。武豊騎手がデビューする前、競馬学校で取材をする際にも、僕を取材担当に指名してくれた。僕もその期待に応えようと、必死に仕事をした。
忘れられないのが1988年(昭和63)秋の天皇賞。この時はオグリキャップとタマモクロスの芦毛2頭の対決が注目されていた。前売りの1番人気は前哨戦のG2毎日王冠を制したオグリキャップで、G1宝塚記念以来の久々となるタマモクロスは2番人気に甘んじていた。
レース前日の1988年10月29日、僕は東京競馬場の前日取材に出向いた。当時は関西馬の多くが東京競馬場に入厩しており、仲でもタマモクロスの動きは非常に力強さを感じさせるものであった。調教終了後、厩舎エリアに行くと、寡黙なタマモクロスの井高淳一調教助手(元騎手)が僕を含む2、3人の記者を前に珍しく長めの話をした。
「このレースにニッポーテイオーが出ていないのは大きい。もし、出ていたら、ウチの馬とオグリが後ろで牽制している隙にスイスイと行かれて、あれにやられる。それを気にして早めに動けばオグリに差される。そのニッポーがいないから、ウチはオグリだけ見てればいい。オーナーが昭和天皇と同じ年の生まれで、どうしても天皇賞を春・秋と勝ちたいというから、休み明けでも最高の状態に仕上げた。この状態ならオグリは怖くない。見とけよ、絶対に負けんから。」
この井高助手は栗東でも腕利きで有名。栗東のある厩務員が「井高は(騎手の頃の)競馬はアカンかったが、馬を仕上げさせたら天下一品やぞ。」と言っていたのを思い出し、僕は「もう勝つのはタマモクロス」と思い、その日の昼に堀内デスクに報告した。
■僕の報告に堀内さんは…
僕からの報告を受けた堀内さんは金曜日の段階でオグリキャップを本命にしており、正直、戸惑ったようである。電話口で「松田よぉ、調馬師(調教助手)なんてレースの1日前はみんな強気になるもんだ。いちいち、それに振り回されてたら予想なんてしてられないだろう」と冷静であった。
その日の原稿を東京競馬場から送り、夜に会社に上がるとゲラ(下刷り)が出来上がっていた。1面は前日の本紙本命のオグリキャップではなく、タマモクロスになっていた。堀内さんは僕の報告を入れて、本命オグリキャップをタマモクロスに打ち替えていたのである。本紙予想が前日で変更というのもあまり例がない。もし、オグリキャップが勝ってタマモクロスが3着などという結果になれば、「何で打ち替えたんだ」と批判が殺到するであろう。そのリスクを考えると、本命を打ち替えるのは相当な勇気が必要だったと思う。
芦毛対決に沸いた秋の天皇賞、結果はタマモクロスが予想外の2番手につける策に出て、そのまま抜け出し、2着オグリキャップに1馬身4分の1差をつける完勝だった(第98回天皇賞 競走成績)。
前日に印を打ち替えたのは、直前まで熱心に取材をした成果、と会社の上層部が喜び、僕は入社初めての部長賞を手にした。それも結局、堀内さんが批判されるのを覚悟で本紙予想を打ち替えたから。お互い、そのことを話したことはなかったが、そのあたりから堀内さんも僕のことを一人前の記者として認めてくれるようになってくれた気がする。
■堀内さんとの最後の電話
僕は2014年秋に早期退職制度を利用して日刊スポーツを離れたが、その時には既にレース部を離れて10年以上経っており、堀内さんにも挨拶には行った記憶はない。
その後、堀内さんと連絡を取ったのが2020年の晩夏から秋にかけての頃だったと思う。堀内さんが「3番勝負」というコラムを急遽終了し、競馬記者を引退することになったことがきっかけだった(日刊スポーツ電子版・堀内泰夫「3番勝負」終了のお知らせ)。
そのことを岡山俊明レース部長が記事にしているのを目にして、あまりに急な競馬記者引退に(どこか悪いのか)と思って気になり携帯電話の番号を関係者から聞き出して連絡を取った。話をするのは20年ぶりぐらいだったと思うが、昔のように気さくに接してくれた。
「急にやめたから、どこか悪いのかと思いまして」と言うと、「実は癌が見つかったので、治療に専念する」という話をしてくれた。その時は死因となった肺がんではなく、他の臓器に発見されたと言っていたので、転移したのかもしれない。
話をしたついでに、僕が自分のサイトで堀内さんのことを書いたことがあり(参照・昭和最後のジャパンCにやってきた陽気なイタリアン トニービンの調教師に合掌)、事後で申し訳ないが了承してほしいと言うと、こんな答えが返ってきた。
「了承も何も、知らねえ仲でもねえし、松田が書くなら好きに書いてくれて構わねえよ。」
この話を聞いた時、堀内さんは僕のことを記者として認めてくれていたんだなとあらためて喜びが込み上げてきた。「病気が良くなったら、飲みましょう」と約束して電話を切ったのが最後になった。
■思い出す1985年夏
お世話になった堀内さんの死を知ったのは、実は今日5月2日である。当サイトで日刊スポーツの報道姿勢を批判することもあるため、僕も意識して関係者とは接しないようにしているせいか話が伝わってこない。それは僕の不徳の致すところでもある。
堀内さんのことを思い出すと、1985年夏、新幹線で新潟に向かった時のこと、東京競馬場でタマモクロスとオグリキャップを取材したことなどが次々に思い出される。
今、僕がこうして曲がりになりにも文章を書くことを仕事にしていられるのも、堀内さんという理解者がいたという要素は決して小さくない。
堀内泰夫さん、色々とありがとうございました。どうぞ安らかに。
合掌