神立 尚紀カメラマン・ノンフィクション作家
いまから80年前の昭和17(1942)年6月5日、それまで無敵を誇っていた日本海軍は、ミッドウェー海戦で、南雲忠一中将率いる「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の主力空母4隻を撃沈され、開戦以来はじめての大敗を喫した。
圧倒的に優勢な戦力を擁しながら、劣勢のアメリカ艦隊に敗れたこの戦いが、「あの戦争」の一つのターニングポイントになったことに、議論の余地は少ないと思う。80周年を機にミッドウェー海戦を振り返るシリーズ、第1回は、この戦いについての総論である。
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ミッドウェー作戦案
昭和16(1941)年12月8日、日本陸軍のマレー半島コタバル上陸、次いで海軍の真珠湾攻撃で太平洋戦争(大東亜戦争)の火ぶたが切られた。日本軍は緒戦で米英軍を圧倒、またたく間に東南アジア全域を制圧する。
開戦の最大の目的であった蘭印(現・インドネシア)の資源地帯の確保はこれで果たされたが、いったん始まった戦争は簡単には終わらない。次の作戦をどうするのか、海軍部内でも議論が分かれていた。
山本五十六聯合(れんごう)艦隊司令長官は、早期に戦争の決着をつけようと、積極的な作戦構想を抱いていた。ハワイと日本の中間点に位置するミッドウェー島を攻略することで米空母部隊を誘い出し、これを一挙に撃滅しようとの企てである。
いっぽう、作戦全般をつかさどる海軍軍令部は、堅実な長期戦の態勢を作ろうと、サモア、フィジーとニューカレドニアを攻略して、アメリカとオーストラリア間の海上交通と航空路を遮断する作戦(FS作戦)を考えており、ミッドウェー作戦には消極的だった。
だが結局、開戦以来強い発言力を持っていた山本長官に押し切られる形で、4月5日、軍令部はミッドウェー作戦案を承認する。このとき軍令部は、北からの脅威に備えるために、北太平洋の米領アリューシャン列島西部の要地をミッドウェーと同時に攻略することを提案し、聯合艦隊もこれに同意した。
だがアメリカ軍も、反撃の機会を虎視眈々と狙っている。
引用元: ・【特集】 80年前の今日は「ミッドウェー海戦」…勝てるはずの戦いは、なぜ「無残な大敗」に終わったのか [朝一から閉店までφ★]
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